自分の立ち位置を考慮するということ

ときおり、「理想的な現実」等と目にして、それは「理想」ではないのかとか思うのだけど、それを指摘すると「理想的な現実は『現実』であって『理想』ではない」とか言われるに違いないので黙っている。たしかにその通りだと思うのだけど、そういうレトリックは正直どうでもいいし、紛らわしい。同様に、「現実的な理想」という妙に妥協している用法を目にしたときも首を捻る。「現実的ではない理想」というのは理解できるのだけれど「現実的な理想」といわれると奇妙な感じを受ける。

これはつまり、自分も現実のなかにいるという自覚を固守して現実を対象化しているかどうかという差だろうか。ちなみに、自然科学と社会科学の差はここにあるといっても良いと思う。領域に現れる対象の各々が自己意識を持っているかどうか、さらにはその各々が自分のいる領域それ自体を認識しているかどうかという差です。より厳密にいうと、そうしたことを前提にして研究されているかどうかの差です。従って、物理学に究極の法則が発見(発明)されるということはあり得るかもしれないけれども、経済学に究極の法則が発見(発明)されるということはあり得ないように思われます。砕いた表現にすると「絶対に儲かる」法則というのはあり得ないだろうということです(追随者が続出するため)。

そういう意味では「必勝法」のあるゲームとないゲームではあまりにも大きな差がある。差というよりも、まさにその一点によって「まったく違うゲームにさえなる」といったほうが適切かもしれない。そこで、ルールによって「必勝法」を消去できるのであるならば、それを是正した上でゲームが始められるのが好ましい、と、思う人がいるかもしれないけれども、それは自分が「必勝法」を知らないからで、もし自分が「必勝法」を知っていたらどう思うだろうか、と、考えることは無益ではない。なにの話をしているのかというと民主主義の話をしているのです。

僕は「民主主義」という語が理解できずに、あれこれ「民主主義」について考えているのだけれど、「皆で民主主義を考えましょう」という態度と取るということがもっとも根本的な民主主義的な要素なのかと思う。しかし、この発想は比較的なににでも応用でき、少し便利すぎるのでそのうち撤回しなければならないかもしれない。
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by kourick | 2006-07-16 00:00 | 考察