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懐疑の正当性の無化という消極的な戦略

さて、そういうわけで、ウィトゲンシュタインのパラドクスという変なのの話の続きを少ししよう。通常、アディションであると考える「+」を用いた計算を、懐疑論者は「いやいや、それはクワディションかもしれないよね」と言いだすという話を以前しました。

実のところ、この懐疑に基づいた議論というのは非常に強力でなかなか論駁できません。懐疑論者と縁を切って己の信じる道を突き進むのも良いけれど、ここではちょっと、別の解決策を提案してみよう。

というわけで、「そもそも本当にその懐疑は成立するのか」を疑おう。懐疑論者に「それちょっと疑りすぎじゃない?」と言ってみよう。

つまり、懐疑論者が「アディションだとは言い切れない、だってクワディションかもしれないじゃない」と言うとき、その人はアディションの代わりにクワディションの可能性を主張するわけですが、まさにその人の懐疑によって「アディションもクワディションも身分は同じ」なわけだから、その懐疑論者が誠実に「アディションを疑う」ときには同様に「クワディションも疑っていなければならない」ように思われます。

とすると、懐疑論者はアディションを疑うのと同時にクワディションも疑わなければならないから、クワディションの可能性を主張することもできないように思われる。

だから、結局どういうことかというと、誠実な懐疑論者は「そもそもアディションを疑うということもできない」のではないのかということ。むしろ、「アディションを疑う」ということが「そもそもどういうことなのか」ということすら、わからないのではないか。
by kourick | 2006-06-30 00:00 | ○学