セカイ系など花拳繍腿、 独我論こそ王者の技よ!(七)

 それでは 『論考』 における「独我論」をみていこう。もう、ゴールしてもいいよね? そして、最後に全体のまとめをできたらいいなと思っている。ところで、と、いきなり「ところで」を使うけれど、いまからみる独我論の仕込みはいったいどのあたりから始まっていたのだろう。

 結局のところ「1」からということにはなりそうだけれど、まあ、それはまだ「独我論の開催が決定しました」みたいなものだろう。準備はたしかにそこから始まっている。それでは、当日、競技場に向かって歩き始めたのはどのあたりだろう。僕は「5.54」あたりかなと思っている。

 つまり、「命題的態度」のあたりから「おや?」という印象は受ける。それではウォーミングアップを始めたのはどのあたりだろうか。これは「5.55」だろう。つまり、前回からこっちのあたりである。じゃあ、スタートラインに立ったのは? これはけっこう難しいかもしれない。

 ただ、きっと「5.5561」だろう。そして、スタートのホイッスルが「5.5571」で鳴る。そして、「5.6」から走り出すのだ。ぼけっとみていると「5.6」から不意に独我論が始まったような印象を受けがちだけれど、そうじゃない。折角だから、ちょっと並べてみてみよう。
経験的実在は対象の総体によって限界づけられる。限界は再び要素命題の総体において示される。(「5.5561」)
ア・プリオリな仕方で要素命題を挙げることが私にできないのであれば、要素命題を列挙しようとする試みは、最後にはあからさまなナンセンスに行き着くしかない。(「5.5571」)
私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。(「5.6」)
 さて、まずは「経験的実在」という「はい?」というような言葉が不意に使われている。といっても、この言葉はここでしか使われていないのだけれど、これは前回、「なにはともあれ、なにかがなきゃならん」といっていた「なにか」に相当するものである。

 私たちはそれについての事実を語ろうと思うところの「なにか」に出遭っていなければならない。それについて考え、それの存在を認めようとするところのなにか、これが「経験的実在」といわれているところのものである。なにはともあれ、それがないことには始まらない。

 そして、実際に「なにがあるのか」は世界のうちに「どのような対象があるのか」によって示される。その対象は名に対応しており、名は命題のなかに現れることによって対象を指示する。というわけで、対象は結局のところ、命題を通して知られる。ここまでが「5.5561」である。

 さて、次に「ア・プリオリ」という表現が使われている。これはとても重要な専門用語だけれど、特に難しく考えず、素直に「経験に先立って」といういみで押さえてかまわない。それではウィトゲンシュタインにとって「経験」とはどのようにして与えられるものだっただろう。

 これも前回に少し触れた。『論考』 における経験は、命題として表現されることによって世界のうちに現れる。というわけで、経験は命題という表現によって得られるわけだから、命題は経験に先立って提示されなければならない。これは当然のなりゆきだろう。

 経験よりもさきに言語を使えるというのは奇妙に感じられるかもしれないけれど、経験を語る前に経験を語るための言語が使えなければならないと言い換えるなら、そう奇妙じゃないと感じられるだろう。このパターンのやりとりには飽きてきたかもしれないが、厳格に受け止めよう。

 この「5.5571」の翻訳は訳者によってニュアンスがちょっと異なっていて難しいのだけれど、この一節に現れる「私」というのはどういうことだ?というのは踏みとどまって考えていいポイントだと思う。「5.6」の直前、スタートホイッスルの瞬間、ちょっと時間を止めてみてみよう。

 実のところ、ここまでも「私(ich)」という言葉はけっこう使われていた。以前、『論考』 翻訳集を作ったのだけれど、使う機会は(当たり前だが)なかった。けれど、こういうときはデータをソートできるのでけっこう便利だ。折角だから、「私」の使われているところを網羅してみよう。
「2.0121」「2.0123」「2.01231」「2.013」「2.02331」
「3.12」「3.201」「3.221」「3.31」「3.313」「3.318」
「4.021」「4.0312」「(4.032)」「4.063」「4.1121」「4.122」「4.1252」「4.126」「4.24」「4.241」「(4.243)」「4.461」「4.51」
「5.02」「5.101」「5.132」「5.154」「5.155」「5.234」「5.2521」「5.2522」「5.4733」「5.5」「5.501」「5.502」「5.521」「5.53」「5.531」「5.532」「5.5423」「5.5541」「5.555」「5.5571」
「6.02」「6.1203」「6.2322」「6.2323」「6.341」「6.373」「6.422」「6.4312」「6.54」
 以上の箇所で「私」が使われている。使われ方としては二通りが考えられる。ひとつは「俺はこうするぜ」というように「俺=ウィトゲンシュタインはこうします」というときに使われる場合で、もうひとつは「私」という人一般について「こうなります」みたいに使われる場合である。

 3代なんかは(「3.221」を除いて)「俺=ウィトゲンシュタインはほにゃららを表現するのにむにょららという言葉を使うぜ」みたいなことを言っているので前者、2代なんかは「人はこう考えにゃならんよ。ま、俺もそのなかの一人だけどね」と一般的なことを言っているので後者になる。

 簡単な見分け方としては、「私」に別の表現を代入してみる方法が考えられる。「私」というところに「ウィトゲンシュタイン」以外を代入することができないところは前者、「私」というところに「僕」とか「彼」とか任意の誰かを代入することができるところは後者となるだろう。

 じゃあ、「5.5571」はどっちなんだという話で、素直に読むと、ここは一般的なことをいっているように思われる。のだけれど、事情はそう簡単ではないように僕は思う。というのも、興が乗ってきたのか、途中からはそうはっきりと区別できないように感じるのだ。

 どこまでがベタな使い方をしていて、どこからがメタな使い方なのかというのは意外とわからない。まるで一人称で書かれた叙述トリックもののミステリを読んでいるようなもので、「私」がウィトゲンシュタインのときもあれば、実は「私」は一般的誰かだったみたいなこともある。

 まあ、どっちにしたって、この書物はウィトゲンシュタインが書いているのだから、結局のところ、その「私」というのは具体的にせよ形式的にせよ、とりあえずはウィトゲンシュタインのことを指してしまっている。これはちょっと 『論考』 の構造的なややこしさを感じるところだ。

 『論考』 において、ウィトゲンシュタインはひとつの世界観、言語観を提示する。そのとき、その世界観を提示するために「私、ウィトゲンシュタインはこうする」と語る場合と、その世界観のなかで「私はこうなる」と示す場合と二種類あるというのがややこしいのだろう。

 さて、なんだか無駄に細かいところに突っ込んでいったような気がしてきたけれど、結局のところ、素直にそう感じるところに立ち戻ってみよう。この「5.5571」の「私」は実際になにかを表現しようとする人物のことである。たとえば、ウィトゲンシュタインその人のことだ。

 当たり前すぎて「哲学的じゃない」という印象をうけるかもしれないけれど、哲学をするのに哲学的である必要はない(と言いつつ、この言い草も哲学的かもしれない)。「5.5571」に現れる「私」というのは、「私」と言うことによってなにかを表現しようとしている人物、その人のことである。

 論理的な考察の始まるまえ、言語批判に晒される前の、普段、日常言語において自分についてなにか語るときに使う「私」ということで、思考主体がどうとか難しいことは考慮してはいけない。このことはきっと、またあとでも触れるのでちょっと覚えておいてほしい。

 ちなみに、邦訳に関していうと、『論考』 には「坂井秀寿訳」「奥雅博訳」「黒崎宏訳」「野矢茂樹訳」という代表的な翻訳があるのだけれど、全集に収録されている奥訳は意外にもちょこちょこ「ich」を省略して訳しており、黒崎訳、野矢訳はけっこう律儀に訳している。

 そして、「ich」の訳語ということで興味深いのは坂井訳で、そこでは「わたくし」と「私」に訳しわけている。通常は「わたくし」と訳しており、ここぞというところで「私」が使われる。実に「私」が使われるのは三ケ所だけで、それは「5.62」「5.63」「5.641」である。

 これはまあ、意訳になるだろうから、賛否のあるところだとは思うけれど、日本語にはこれといった主語がないということを利用した面白い措置なんじゃないかなと僕は思う。ただ、これを話し始めると 『論考』 の読解の解釈みたいなことになって万歳なのでさきに進もう。
私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。(「5.6」)
 さて、地道にここまでお付き合いいただけた人にとって、もはやこの一節はそれほど不可思議なものでも、なんだか格好良いだけのものでもないのではないかと思う。とはいえ、「ですよねー」とそのまま納得できるようなものでもないだろう。ちょっと説明を試みてみよう。

 これまでウィトゲンシュタインはもっぱら言語を言語たらしめる条件について語っていたように思われる。では、ここにきてどうして「私の言語」などという言葉が使われることになってしまうのか。というか、「私の言語」というのはいったいどのようなものなのだろうか。

 ふむ、世界についてなにかを語ろうとするとき、僕はその「なにか」について表現する。それが世界を描写する命題として表現できているのかどうかは、その対応関係や論理的関係を確認することでチェックできる。ただ、僕が「なにを」語ろうとしているのかは僕の生活に依拠する。

 それは「経験的実在」といわれていたものだけれど、僕は僕と面識のあるもの、僕の生活のうちにあるものについて語ろうとし、そこからの類推を駆使することによって「なにか」を語ろうとする。そして、そのようにしてしか表現できない。これが「私の言語」の内実だろう。

 つまり、「私の言語」とは「言語の条件を満たしている僕の日常言語」のことである、というのが僕の理解である。僕個人のことをいうと、僕は日本語とちょっとした外国語、そして、ちょっとした形式言語(も日常言語の範疇にある、か?)をメインに使う。これが「僕の言語」の背景である。

 いや、もっと正確に言うと、絵なども含まれるだろうか。ただ、絵は下手なので複雑なものを表現することはできないだろう。ということで、これが「僕の言語の限界」を定める。それらが世界を描写する言語として僕の思考を表現するのに使用可能な記号の限界である。

 そして、それは「僕の世界の限界」を意味する。言語が世界と対応していたように、僕の言語が言語としての条件を満たしているのなら、僕の言語はある世界と対応している。それはきっと僕の世界だろう。そしてまた、僕の言語の限界は僕の世界の限界と対応している。

 というわけで、僕は僕の生活のうちにあるなにかについてのみ語ることができる。僕は「あるもの」についてのみ語れる。ところで、これはけっこう厳しい条件になっている。なぜかというと、僕は僕の生活のうちに「ないもの」については語れないということになってしまうからである。
われわれは、論理の内側にいて、「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。(「5.61」)
 このように言われている。なるほどたしかに「世界のうちには存在するものしか現れない」のだから、これまでの話の流れだとそうなるのだけれど、これだと、僕たちが通常「言語」と呼ぶもので語っている(と思っている)ことの多くは「実は言語になっていない」ということになってしまう。

 たとえば、「ミノフスキー粒子」とそれが「レーダー誘導兵器を無効化することによってもたらした戦術・戦略的影響」とかは世界について語っているものではないので、言葉を使って表現しているけれど言語じゃないということになる。まあ、このあたりはまだどうにでもできる。

 困るのは、僕の生活のうちに現れていているものについてしか語れないということになると、科学理論などにおいて理論上想定されるようなものの存在も語れないことになりかねないことだ。このあたりは 『論考』 の難点だろう(「5.5542」や「3.328」の後半はどう理解しよう?)。
思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。(「5.61」)
 話を戻そう。この一節はちょっと省略されている。つまり、どうして「それゆえ」なのかということだ。この隙間を埋めるとしたら、「思考するとは命題のかたちで表現することであり、命題として表現するということが語るということである」というのを挿入したらいい。

 これは(二)で書いていたことである。ここで「思考しえぬこと」といわれているのは「世界のうちにないもの」のことであり、それゆえ、そのものについて「あれは存在しない」と語ることのできなさを主張している。これは序文に書かれていたことと同じ論法になっている。
本書は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してと言うべきだろう。というのも、思考に限界を引くにはわれわれはその限界の両側を思考できねばならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならない)からである。
したがって限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。
 どうしたって、人は思考を思考の内側から眺めるしかない。人は思考を思考の外側から眺めることはできない。僕の理解によると、これこそが「この見解が、独我論はどの程度正しいのかという問いに答える鍵となる」(「5.62」)の「この見解」に相当するものである。
世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。(「5.62」)
 この「世界は私の世界だ!」というのはまさに独我論的主張である。どうしてそうなるのか。世界は言語によって描写され、言語は私の言語としてしか表現しえない、そのとき、私の言語によって表現されるのは私の世界である、ゆえに、世界とは私の世界のことである。

 とまあ、少しごまかしているところもあるけれど、一筆書きでいうとそういうことである。さて、ここまでが、ウィトゲンシュタインの独我論の半分である。世界をその外側から眺めることはできない。じゃあ、ウィトゲンシュタインの独我論のもう半分をみよう。(続く)
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by kourick | 2012-07-14 20:00 | 考察