セカイ系など花拳繍腿、 独我論こそ王者の技よ!(六)

 すっかり間を開けてしまった。こういうものを多少なりともきちんと読もうと思っているときに勢いを失ってしまうことほど恐ろしいこともないような気がするのだけれど、むしろ逆に、冷静に読めるようになってよかったと思ったほうがいいということもある。なにはともあれ書いてみよう。

 二点、迷った。ひとつは「シンボル」という表現の使い方をちょっと考えてみたほうがいいのかなと思ったこと(「3.31」)。しかし、これは無視する(そしてきっとずっと無視する)。もうひとつは「存在論と言語論の関係にどう決着をつけておこうか」ということである。

 ちょっと手にあまるテーマではあるけれど、『論考』 に沿って、簡単にみてみることにしよう。あらためてそんなことも考えなきゃいけないのかなと思ったのは、「5.552」を読んでいてのことである。岩波文庫の野矢茂樹訳 『論考』 から引用する(ちなみに、ここまでずっと野矢訳)。
論理を理解するためにわれわれが必要とする「経験」は何かがかくかくであるというものではなく、何かがあるというものである。しかしそれはまさにいささかも経験ではない
論理は何かがこのようにあるといういかなる経験よりも前にある。
論理は「いかに」よりも前にあるが、「何が」よりも前ではない。
 太字による強調は、原訳では傍点による強調だけれど、ここではそれを再現することができないので変更した。もちろん、原文でもその部分は強調されている。さて、これはいったいどういうことだろうか。ちなみに似たようなことはけっこう前、「3.221」にも書かれている。
対象に対して私は名を与えることができるだけである。そうして記号は対象の代わりをする。私は対象について〔その性質等を〕語ることはできるが、〔性質を抜きにして〕対象を〔単独で〕言い表すことはできない。命題はただものがいかにあるかを語りうるのみであり、それが何であるかを語ることはできない。
 〔〕で括られている部分は訳者による挿入で原文にはないけれど、そのまま引用した。もっとも、これらの置かれている文脈は少し異なっているので、単純に同じことを言っているわけではないけれど、似た発想、というか、同じ発想のもとで書かれてはいる(当たり前か)。

 これは「3.221」からみたほうがわかりやすそうだ。わたしたちは事実に直面する、それは命題によって描写されることでわたしたちに与えられる。そして、命題を分節化することで「名」は得られる。名は命題の構成要素であるが、命題を分析することによって得られる。

 それは変だと思う人もいるかもしれない。というのも、人は通常、語をさきに学習し、文を作るような気がするからである。たしかに僕も「一語文」は文なのか語なのかみたいなことは気になるけれど、さしあたり、ここでは命題から始めてもそう変じゃないよということだけを言っておきたい。

 たとえば、生物の身体を考えてみてほしい。勝手知ったる人間の身体であれば、その構成要素について、どこが腕でどこが脚でみたいなことはわかっている。だから、腕をもってきて脚をもってきてといった具合に部分から全体を構成できるかもしれない。

 けれどそれが未知の生物だったらどうだろう。それが腕なのか脚なのかという以前に、それが部分なのか、あるいは、それで全体なのかもわからないだろう。それは身体の全体をみて、その構成要素が果たしている役割を分析することによってわかる。

 イカの頭ってどこ?みたいなこともあるだろう。イカには十本の触手があるけれど、いったいどれが腕でどれが脚なのか、それは「腕かもしれない触手」や「脚かもしれない触手」をみたところでわからない。それらの全体から分析するしかないのである。

 目下の事情もこれに似ている。『論考』 における分析の最小単位は命題であり、名というのは命題の構成要素として分析されることによって得られる。もちろん、一度分析されて得られてしまったなら、その名を用いて新たな命題を合成することができる。

 気を付けたいのは、名の寄せ集めが命題なのではなく(「3.141」)、命題がさきに与えられて、それを分節化することで名が得られるということである。名は命題のうちに現れるかぎりにおいて対象を指示する。これは「文脈原理」といったりもする。提案したのはフレーゲである。

 ウィトゲンシュタインがどこまでフレーゲ的な命題の関数論的分析を踏襲しているのかについて、僕はいま確信をもって言うことができないけれど、ここでのミソは、名を一次的なものとして扱わない(対象を直接扱わない)ことによって「イデア的な考察」を避けられるということである。

 たとえば、「テーブルの上にリンゴがある」というときに、その命題はひとつの事実を描写している。この命題から僕は「テーブル」「リンゴ」という名に指示される対象がある仕方で配列しているということを理解し、命題の真偽ないしは事実の成立・不成立を実際に確認する。

 このとき、ある対象の配列、性質の有無がさきにあることが重要だ。それはつまり、命題によって描写される事実がさきということである。もしこれが名がさき、対象がさきということになると、「じゃあ、そもそも 『テーブル』 ってなに?」とか「なにが 『リンゴ』 なの?」ということになる。

 人は名詞をみつけるとそれに対応した対象を探し出そうとしてしまうけれど、それはしばしば無益な探究の始まりになる。「このテーブルもあのテーブルも、同様に 『テーブル』 であるのは、テーブルのイデアを分有しているからだ」みたいな考察が始まってしまう。

 現実の世界の背後に真の世界がある、みたいな話になる。ウィトゲンシュタインはこれを拒否している。日本語だとニュアンスが伝わらないけれど、定冠詞なり不定冠詞なりが付いているというのはことのほか重要だろう。「このテーブルの上にこのリンゴがある」という具合に。

 イデア的な探究は具体的な事物の背後にすら、抽象的なそれらの本質といったものを想定しだす。だが、その手法は誤りだというのである。命題(に描写される事実)から始めるということは、思考たるものをこの現実に踏み止まらせるという働きをする。

 話を戻そう。「わたしたちは対象に名を与える」そして「対象について語る」ことができる。しかし、対象とは命題を分析したときに得られる名に指示されているということによって、わたしたちに与えられるのではなかったか。ここでまた、前回と似た疑問が現れる。

 いったい、名がさきなのか、対象がさきなのか、どちらなのだろう。しかしこれは、そのような疑問に引き寄せられるさらなる疑問によって循環を始める。というのも、仮に名がさきだとしたら、僕たちはいったい「なに」に名を与えたのだろうか。最初に言語がある? まさか。

 だが、名によってはじめて対象が得られるのだとしたら、僕たちはいったい「なに」に名を与えたのだろう。名を与えることで対象は創り出された、そんなことは少なくとも人間にはできない。やはり、語られる、示される、なにか、それは論理の適用に先立ってある。
論理を理解するためにわれわれが必要とする「経験」は何かがかくかくであるというものではなく、何かがあるというものである。しかしそれはまさにいささかも経験ではない
 「5.221」のこの箇所で言われていることは、まさにそのことだろう。論理形式に則った命題は「このようにある」という事実を語る。そして、そのうちにある論理を示す。しかし、そのためには、そもそも論理が適用されるところの「なにか」の存在を前提していなければならない。

 だが、「存在」は論理適用後の世界のなかに現れることによってのみ与えられる。それゆえ、その「なにか」はわたしたちに現前しているには違いないものの、いささかも「存在ではない」ということになる。わたしたちはそれらをいまだ、なんらかの経験としては受け取っていない。

 どうして?という人もいると思うのでいちおう説明すると、それは「存在しないものを経験することはできない」からだろう。このとき、存在の水準が引き上げられていることに注目したい。ウィトゲンシュタインにとって、存在というのは語りうる次元にのみ現れうるものになっている。

 語りうる次元においてのみ存在は対象によって表現され、その次元においてしか経験もありえない。けれど、僕たちにはなにかを語ろうとするときのその「なにか」が必要だ。それはたとえば「実在」とでも言いたくなるものだけれど、それは前提であるがゆえにいまだ「存在」ではない。

 どこか逆説的なものがあるけれど、そうなっている。僕たち(もしかすると僕だけかもしれないが)は「存在」ということで世界の岩盤にぶちあたったような印象を受けがちだけれど、それは本来、「ある」とか「ない」とか語りうる次元、言語の次元に収められなければならない。

 ちなみに、哲学に興味のある人なら、ここでカントの「物自体」を思い出すかもしれない。現象の背後にあると想定される「物体X」である。これの解釈はもちろん、おいそれと僕のような人間のできることではないので立ち入らないけれど、たしかにけっこう似ているところはあると思う。

 ただ、僕の理解だと、それはたとえば、サルトルの著書 『嘔吐』 で、主人公のロカンタンが「マロニエの樹の根」の背後に感じたような未文節の不気味ななにかではない。うにょぼやうにょぼやと蠢いている気持ちのわるい漆黒のなにか(僕のイメージ)といったものではない。

 認識論からちょっと距離を置いているウィトゲンシュタインにしても、それは同様であると僕は思う。むしろ僕が「5.221」で気になるのは、ここで言われている「経験」とは、いったいどのような経験なのだろうかということである。その根源的経験とはいったいどのようなものなのだろう。

 そこには実際、発達や認識にかかわる有意義な研究がありうるように思うのだけれど、『論考』 の枠組みにおける哲学的活動としては、もはや積極的に語るに足りるものではない。ただ、これを「言語的経験」と捉えるなら、『論考』 における根源的経験を考えられるかもしれない。

 つまり、日常生活において、とりたてて意識せずに言語を用いて(しまって)いるという、その経験のことである。日常言語というとややこしいので「言葉」といったほうがニュアンスがあるかもしれないけれど、なにかしらの表現活動のポテンシャルを人はそれぞれもっている。

 ヘレン・ケラーが水と「水」という語の対応に気付いたときに外界を秩序立てて認識し始めたように(といっても、このエピソード自体は映画の創作だった気がするし、幼少期における原体験もあったのかもしれないけれど)、認識と言語というのは表裏一体に貼り付いている。

 そうすると、僕たちが生活しているありのままの世界は、ありのままの言語によって満たされている。僕の感覚・運動器官はさまざまな情報を僕にもたらす。それはいってみたら「僕の環世界」を形作るが、しかし、それは言語にマークされることではじめて「僕の世界」を表現する。

 そして、保有されている有象無象の表現は論理という枝切りバサミによってザックと伐採される。それによって、それらの表現は「世界を描写する言語」に成形されるのである。また、事実を描写する要素命題のみを残して、意味がないとされた表現は世界のうちから放逐される。
いかなる要素命題が存在するのかは、論理の適用によって決まる。
 「5.557」はそういうことだろう。当たり前のことだけれど、僕たちの周りにはさまざまなものがある。僕たちはそのことをして「さまざまなものが存在している」と言いたい。そして、指を指して「これは存在している」と言ったりする(普通はしないと思うが、たまにすることもある)。

 この「言いたかったり」「言ったりする」というのがことのほか重要で、まさにそうするときに「存在」は世界のうちに現れる。トートロジカルな言い回しになってしまうけれど、なにかについて、それが「ある」とか「ない」とか存在を語るときにこそ、存在は世界のうちに現れうる。

 その「なにか」はある。けれど、それは「存在」としては世界のうちに現れていない。こういうことになっている。気持ちとしては、その「なにか」のほうを「真の存在」とか思ってしまいそうだが、それは言語のレイヤを通さないと語れないし、語れないものは存在とは言えない。

 そして、もし、その「なにか」について語ったのなら、それはもう言語の次元における存在として世界のうちに現れてきており、その存在も問題にできる。というわけで、「真の存在」は存在しえない。さきほど「存在の水準が引き上がっている」と言ったのはこういうことである。

 論理の適用をまって、要素命題とそれによって描写される事実は世界のうちに現れる。その存在が与えられる。だがそれは、それがたしかに要素命題であると論理的な根拠から知られるまえから、きっと要素命題だろうと気付かれているものではあったのだ。
要素命題が存在するはずであることが純粋に論理的な根拠から知られるのであれば、分析されていない形式で命題を理解している誰にでも、知られるのでなければならない。
 「5.5562」で言われているのはそういうことだろう。こうやってつらつらとみていると、『論考』 の言語というのは日常言語によって相対化されているんじゃないかとも思えてくるのだけれど、この直後、独我論がふわっと現れる。次回こそは、それを考えてみよう。

 いちおう冒頭のテーマに戻ると、『論考』 は存在論があって認識論があって言語論があって解釈論があってみたいな層分けにはなっていない。言語論がすべてに先行するというわけではないものの、あらゆる問題は語りうる領域に収まるか、さもなくば沈黙という二択を迫られる。

 そういういみでは、言語論が最優先とはいえるかもしれない。語りうるかどうかというフィルタが一番上にあって、本当にまともに語れているのかという厳密なチェックが入る。逆に言うと、そこがボトルネックになっていて、本当に語りたいところのものこそ語れない。禁欲的なのだ。

 さて、前回、次がラストだと書いたけれど、残念ながらラストではなかった。だが、次こそはラストである。「これは論理実証主義者の通った道ですか?」とか「この道まじ迷子」とかうにょうにょしながら読んでいる。面白いかと問われると、決してそんなことはないと断言できる。(続く)
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by kourick | 2012-06-27 20:00 | 考察