セカイ系など花拳繍腿、 独我論こそ王者の技よ!(五)

 そろそろ綱渡りもおしまいにしたい。途中、ほつれていたり切れていたりしているかもしれないけれど、できるだけの一本道をとてとてと歩いてきた。まあ、もしかすると僕はもう空中を歩いているのかもしれないが、気付かないうちに渡りきれるのなら、それに越したことはないだろう。

 なにはともあれ、まずは前回の冒頭に書かれた疑問に僕なりに応じないといけないだろう。『論考』 において「どうして命題は理解できる」のだろうか。これは昨今の学者の知見も参照しようとするなら、けっこう大変な道のりになる(だろう、たぶん。やってみないとわからないが)。

 あるいは、外言が内面化する過程において、その言語がどのような機能を果たすようになるかというような、発達に関するアレクサンドル・ルリアの興味深い研究にまで視野を広げようとするなら、これはもう、いったいどんな地面に立っているのかわからなくなりそうだ。

 けれど、実際のところ、それらは動きのある言語観における問題設定(個別の言語はどのように理解されるのかとか、コミュニケーションはどのように成立しうるのかとか、言語は発達とどのようにかかわるのかとか)で、『論考』 の著者の言語観に則るなら、あまり気にしないでいい。

 というのも、この時期のウィトゲンシュタインの言語に動きはないからである。それは、ある時点において成立していることがらを語る言語、あるいは、どの時点であっても成立することがらを示す言語であって、いわゆる「語用論」といわれるような領域には踏み込まない。

 『論考』 の世界に変化はない。ウィトゲンシュタインだったら、きっと、次のように言うだろう。「世界のなかに変化はない。もし、変化といわれるものがあるとするなら、それは世界そのものが変化するのである」とかなんとか。それもまた示されるほかないものに違いない。

 しかし、どうしてだろう。どうして、これほどまでに 『論考』 の世界と言語(そして論理)は動かないのだろう。僕は漠然と、それは「1」から「2.063」までで決まってしまったことなのだと思っているけれど(とりわけ「2.063」は強力だ)、いまいち、はっきりとした考えはまとまっていない。

 もしどこかを改変してみることで 『論考』 が動き出すなら、それはとても面白いことだと思うのだけれど、まあ、たぶん無理だろう。少なくとも、いまの僕には無理だ。そしてまた、『論考』 というのはあまりにも緊密に編み込まれているので、いつまでたっても無理じゃないかとも思う。

 なににせよ、言語を用いて行為するとか、コミュニケーションするとかいったことは、『論考』 の世界のなかでは起こらない。『論考』 の言語はあくまで事実としての世界を記述するものであって、言語を用いて行為するというのは、言ってみれば、世界の外側にあることがらになる。

 それはまた、『論考』 の世界のなかに、そのような活動をする主体は存在しないということを示す。世界は言語によって描写され、言語は世界の像である。絵に描かれた人物が思考していないように、言語によって描写された人物も思考していない。

 「5.541」からの命題的態度の解決などは、その直接的な帰結である。ウィトゲンシュタインはここのところバッサリしている。これは実際、かなり厳しいラインを全速力で駆け抜けているのだけれど、『論考』 をここまで読んできた人にとっては「仕方ない、か?」と思わされるところである。
「Aはpと信じている」「Aはpと考える」「Aはpと語る」は、もとをたどれば「「p」はpと語る」という形式となる。(「5.542」)
 これは正直、わけわからんと思う人が多いと思う。そして、これは解釈の余地があるところで、人によって言っていることが異なるのだけれど、ここまでの流れでいうと、僕はこう言わなければならないだろう。言語と世界の対応関係にとって、人がどう思っているかは関係ない。

 人がどのようなことを信じているか、考えているかというのは、命題のかたちで表現されてはじめて世界のなかに現れるのであって、そうじゃない信念や思考といったものはありえない。もしそれが命題として表現されているのなら、その命題が事実どうであるかを語るのである。

 ウィトゲンシュタインは信念を対象化しないし、思考にしたって、それが命題として表現されたものしか扱わない。人がそれを信じているなどというのは、それがなにかしらの内的な状態を表しているかぎりは世界のうちに現れておらず、語りえないことである。

 たとえば、晴れているときに「雨が降っている」と言ったら、それは偽であるけれど、「僕は雨が降っていると思っている」は僕がそう思っていたら真である。これはおかしいという話なのだけれど、僕がそう思っているだけのことがらは世界のうちに現れていないので、考慮に値しない。

 もし、僕が雨が降っていると思っていて、それを「雨が降っている」と命題のかたちで表現したなら、そのときはじめて僕の信念は世界のうちに現れる。そしてその信念は誤っているのである。なぜなら、実際には、晴れているからである。なにもおかしなところはない。

 そして、そのような世界であるとするなら、「理解」に関して、ふたつわかることがある。ひとつは、「理解」や「思考」といった「活動」は世界のなかにはないということ、もうひとつは、ウィトゲンシュタインの世界において「理解」は「思考」と一致するということである。

 「思考」という活動は世界のなかにはない、そしてそれは「思考主体」は世界のなかにいないということも含意する。それはただ、なにかしらの表現を通して「思考された」ということによってのみ、事実として世界のなかに現れる。そして、その事実のみが思考という活動を示すのだ。

 『論考』 の世界において、「思考する」や「理解する」といったような活動は現れない。ただただ、「思考されたこと」や「理解されたこと」が命題というかたちをとって現れるだけである。そして、そのようにして現れたものだけが、「思考する」や「理解する」といった活動を示してくれる。

 「理解」もまた「理解されたこと」としてしか世界のうちには現れない。さて、ここにいたって、冒頭に掲げられていた疑問は奇妙な仕方で解かれてしまっている。いや、むしろ、その疑問は最初から疑問として成立していなかったのだと言ったほうがよいのかもしれない。

 「思考」は「知覚可能な有意味な命題」として世界のなかに現れるのだった。このとき、その「命題を理解する」には「事実どうであるか」を知らないといけない。けれど、「事実どうであるか」を知るためには「命題を理解する」必要がある。じゃあ、どうやって命題は理解されるのか。

 『論考』 の入口はどこにあるのか、これが疑問なのだった。しかし、これはナンセンスなのだ。なぜかというと、そもそも 『論考』 のなかには理解されたことしかありえないからである。なにを意味しているのかわからない命題というのは、『論考』 の世界のなかには現れない。

 要するに、「どうして命題は理解できるのか」という問いには、「理解できていることを表現しているものだけが命題なのだ」という答えが与えられる。言ってみれば、「思考」と「理解」は同時に与えられ、「言語」と「世界」は同時に与えられる。『論考』 に入口はない。

 しかし、その命題という事実の成立において、「理解されたものは、どのようにして理解されたのか」という問いは、まだ問いうるものだろう。それには、結局のところ、いたって単純な答えが与えられる。理解は「記号を用いた表現活動を通して与えられる」のである。

 つまりは日常言語のおかげだ。ただ、日常言語として使っている記号がきちんと世界を描写しているかとなるとそれは別問題であり、ウィトゲンシュタインにとってはそれこそが問題だったのだ。いわば、『論考』 は、日常言語が言語であるための条件を提示しようとする。

 ウィトゲンシュタインにとって、哲学とは学説ではなく、活動である(「4.112」)。それはどのような活動かというと、命題を明晰にする活動、言語批判である(「4.0031」)。有象無象の表現から、それがきちんと世界を描写する言語(自然科学の命題)なのかどうかを解明する活動だ。

 前回までのエントリでほとんど書いてしまっているようなものだけれど、日常言語は(それがはたして 『論考』 において示されるような意味合いにおいて、どれだけ「言語」としての資格を有した記号なのかは怪しいものの)「現に使える」ということは、やはり 『論考』 の前提としてある。

 そもそも、そうでなければ、この書物自体が読めない。とまあ、それは冗談としても、『論考』 の目的は「語りうることは明晰に語り、語りえないことはそれが語りえないことを示す」ことである。有象無象の表現はもちろんはなからあるのであり、それはたとえば日常言語なのである。

 さながら、身体の発達と同じようにして、言語もまた発達する。だからこそ、「日常言語は人間という有機体の一部」なのだろう(「4.002」)。身体の動かし方を知らなくとも身体を動かすことができるようになるように、言語もまた、その使い方を知らなくとも使えるようになる。

 人は通常、1~1.5歳頃に「パパ」「ママ」のような一語文が初語として現れ、1.5~2歳頃になると「私のほにゃらら」のような二語文を使えるようになる。これはちょうど、マークテスト(鏡像認知)を通過するあたりと重なり、「自我」と「主語」の芽生えが同時期なのは興味深いことだ。

 これはまた、言語とは異なった射影方法によって事実の像となりうる絵画でも同様だろう。もっとも、僕は絵が下手なので、それに関して個人的には自信がないけれど、きっと同じ事情にあるだろう。まあ、それにしては遠近法の発見は遅かったよね、という感想はあるかもしれない。

 これはなかなか面白いところで、普通に発達しただけでは「ありのままの世界」を描いているように思われる遠近法的描写はできるようにならない。遠近法を用いた射影方法(これはまさに射影といえる)は、それなりきのトレーニングを受けないと使えるようにならない。

 実際、遠近法(どの手法にせよ)は、かなり作為的に平面上に奥行きを再現するものであり、描かれたものは「見たままの光景」として感じられるものの、描いているときは、一度、そこにある光景を遠近法的に捉え直してから平面上で再構成するという不自然な過程を踏むことになる。

 これは興味深いところで、『論考』 ともまったくの無関係とも思えないわけだけれど、ちょっと違うラインに移らないといけないので、話を戻すことにしよう。さて、こうして僕は、そろそろ、やっとこさ、紛いなりにも 『論考』 の独我論を話せるところにまできたのではないかと思っている。

 というわけで、次回、ラストである。と、書いておきつつなんだけれど、僕はいま 『論考』 の「5.552」「5.5521」と「5.557」「5.5571」をどう読まないといけないことになるのかに悩んでいる。「悩む」という状態の発生が僕の無計画と無理解を暴露しているが、まあ、どうにかしたい。(続く)
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by kourick | 2012-06-12 00:00 | 考察