セカイ系など花拳繍腿、 独我論こそ王者の技よ!(四)

 さて、じゃあ、『論考』 において「どうして命題は理解できるのか」ということを考えてみたいと思う。といっても、実のところ、これは「理解できるから」というだけで、もしかするとあまり考えるようなことでもないかもしれない。けれど、そこはそれ、今回はちょっと考えてみたい。

 思考の種になりそうなのは「3」代とか、「5.55」代とかだけれど、その前に、ウィトゲンシュタインの言語と日常言語はどのような関係にあるのかを見ておこう。前回も書いた通り、『論考』 の言語というのは論理的に完全なものが想定されている。

 ただ、その一方で、こうも書かれている。「われわれの日常言語のすべての命題は、実際、そのあるがままで、論理的に完全に秩序づけられている」(「5.5563」)。じゃあ、日常言語だけでいいじゃないか、それで論理的な分析もしたらいい、と思うところかもしれない。

 実際、のちにそれを試みる人たちも現れるわけだけれど、この時期のウィトゲンシュタインはそうした方法にはかなり否定的だった。いわく、「日常言語から言語の論理を直接に読みとることは人間には不可能である」(「4.002」)。どうしてだろうか。

 端的に言ってしまうと、日常言語は「あまりにも複雑」だからである。そしてまた、それがもともと「論理を示すためだけに作られているわけではない」からである。実際、日常言語というのはいろいろな使い方ができ、その使い方を楽しむだけでも人の興味を惹くものだ。

 たとえば、「テーブルの上にリンゴがある」と言う場合を考えてみよう。いま食べたばかりなのに、なぜかテーブルの上にリンゴがあった。おいおい、タイムふろしき、いや、グルメテーブルかけの仕業か? ふと驚いて、そんなことを呟いてしまっても不思議ではない。

 もっとも、日本語を話す日本人なら「の上(に)」などという前置詞は使わない場合が多いかもしれない。「テーブルにリンゴがある」のほうが自然に感じるものだ(個人差はあると思うけれど)。そう、「戸棚にお菓子があるから食べちゃいなさい」という謎の定型句もあった。

 お菓子の典型的な在り処とは「戸棚」である。そして、それは「饅頭」か「串団子」と決まっている。いや、それはさておき、「テーブルの上にリンゴがある」である。テーブルの上にリンゴがあるとき、人は「テーブルの上にリンゴがある」とか言ってみるものだ。事実の描写である。

 しかし、必ずしもそうある必要はない。夏休み、突き抜けるように紺碧な日差しのなか、家族と一緒に神威岬を散策しにいった少年が、なんとかその突端に辿り着き、地平線の上にある太陽を見て、付き添いのおじいちゃんに「テーブルの上にリンゴがあるよ」と言ってみる。

 そんなこともあるかもしれない。大人も大人で、「そうだね」とか言うのである。「神様もお腹が減るから、リンゴ食べちゃうんだよね。だから、夜になっちゃうんだよ」「そうなの?」「そうだよ。だって、夜にはお皿しか残っていないでしょう?」とかファンタジるかもしれない。

 こうしたやり取りに「やはり子供の感性は素晴らしい」と思い、うちの子には詩的な才能があるのかもと期待に胸を膨らませるか、「ああ、言葉を奇妙に把握しているし、妄想も激しい」と思い、うちの子は言語理解に難があるのかもと不安に頭を悩ませるかは難しいところだ。

 言語の誤用に「子供の素朴さ」や「感性の素晴らしさ」をみとって感激するのは大人の専売特許といえるだろう。ただ、この場合、「誤用」とはいっても、言語の詩的使用という観点からは、むしろその子は正しいのかもしれない(詩的なものに正しさを求めるのもどうかと思うが)。

 まあ、いまのは何気ない僕の創作だけれど、実際、それほど違和感を覚えなかったのではないかと思う。人は事実を描写するような言語使用を「正しい」と感じ、それゆえに、ある種の詩のように語のイメージや雰囲気を用いた描写を「本来的には誤り」と感じがちだ。

 しかし、なににせよ、そういう使い方もできる(そう、どういうわけかできてしまい、さらに僕たちはそれによって、実際、なにごとかをわかったりもする。が、それはまた別のお話)。上記の場合も、事実の描写にはなっていないだろうけれど、それはそれで面白い言語の使い方だろう。

 ただ、そうした使用法すら許容する日常言語は、厳密に論理的な分析をすることにはまったく向いていない。そうした遊びがナンセンスを生み、誤解を生む。ウィトゲンシュタインは論理的な分析のためには日常言語の贅肉を落とし、論理的な精度を高める必要があると考えた。

 言語に関して「正しさ」を問うというのは、なにを問うているかというと、その「論理的な正しさ」を問うているのだということである。それ以外に、言語のどんな性格について「正しさ」を問いうるだろうか。言語使用はさまざまだが、こと、その正しさということだと、その論理が問われる。

 まあ、これはちょっと(というかけっこう?)僕の読みも入っているけれど、このような目的意識は、フレーゲがその著作 『概念記法』 の序文に書いた、「顕微鏡と眼の比喩」を思い出させる。少し長いかもしれないけれど、引用しておこう。
 概念記法の生活言語(Sprache des Lebens)に対する関係は、それを顕微鏡の眼に対する関係に譬えてみると、もっとも分かりやすくなると思う。眼は、その適用可能な範囲やまったく異なる状況にも適応できる柔軟性の点で、顕微鏡よりはるかに優れている。もちろん、光学機器としてみるなら、眼には多くの欠陥がある。そして、それらの欠陥にわれわれがふだん気がつかないのは、眼が精神生活と内的に結びついているからにすぎない。しかし、科学の目的が分解の厳密さを強く要求するやいなや、眼は不十分なことが明らかになる。これに対し、顕微鏡は、このような目的に完璧に適合しているのであるが、まさにそのゆえに他のすべての目的に対しては役に立たないのである。
 同じように、この概念記法は、一つの特定の科学的目的のために考案された補助手段なのであり、他の目的に対して何の役にも立たないからといって、それを非難してはならない。
 ここで「概念記法」と言われているのは、とりあえず、「記号言語」と考えてもらっていい。そのほかのことは書かれているとおりのことなので、特に説明はいらないだろう。適応力・柔軟性の点で生活言語は優れているが、論理的分析をするには多義的で曖昧なところも多い。

 他方、記号言語は論理的分析を行なうのには適しているが、それがために日常的な生活には役立たない。フレーゲの概念記法は当初「日本語のように分かりづらい」と評されたほどユニークだけれど、その表記法だとルイス・キャロルのパラドクスを生じないなど利点もある。

 それはさておき、『論考』 の言語に話を戻そう。ウィトゲンシュタインも明晰に思考し、明確に表現し、論理的に推論するための言語というものを考えている。ただ、その表し方、あるいは示し方にウィトゲンシュタインはラッセルやフレーゲよりもはるかに禁欲的な態度をとっている。

 ウィトゲンシュタインは論理的に完全な言語を要請しつつも、どうも日常言語のほかに論理的に完全な言語があるとは考えていない。むしろ、「われわれの日常言語のすべての命題は、実際、そのあるがままで、論理的に完全に秩序づけられている」とまで言うのである。

 これはどういうことだろう。ウィトゲンシュタインのいう世界は(定冠詞付きなことからもわかるように)唯一の世界であり、それに対応する言語も唯一の言語である。そして、このことは、その対応関係を保証している論理というものも唯一の論理であることを示唆している。

 ということは、日常言語が論理的に完全に秩序づけられているとき、そのほかに考案された記号言語も論理的に完全であるとするためには、それら両方の言語の扱う領域(ないしは限界)が一致しているということが求められるだろう。これは当然のなりゆきである。

 そして、日常言語の論理的な瑕疵を指摘しつつも、なお、日常言語は論理的に完全に秩序づけられているという指摘を素直に受け取るのなら、ウィトゲンシュタインの想定している論理的に完全な言語とは、日常言語の背景に埋め込まさっているのだと考えるのが自然だろう。
思考は言語で偽装する。すなわち、衣装をまとった外形から、内にある思考の形を推測することはできない。なぜなら、その衣装の外形は、身体の形を知らしめるのとはまったく異なる目的で作られているからである。(「4.002」)
 このように「衣装と身体の比喩」で言われているのは、そういうことである(もちろん、具体的には、ラッセルの記述理論のことなどが念頭に置かれているのだとは思う)。そもそも、そうでないなら「思考は言語で偽装する」などという表現からしておかしいのだ。

 なぜなら、それは「言語は言語で偽装する」と言っているのと等しいからである。前者の「言語」は論理的な言語(記号言語)、後者の「言語」はいまいち論理的とは言い切れない言語(日常言語)のことだろう。それゆえ、厚着した言語を丸裸にするのが哲学の役割なのだ(「4.112」)。

 日常言語は本来、論理的に完全に秩序づけられているのだけれど、しかし、論理的な目的に資するためには余分なところが多すぎる。世界のうちに指示対象をもたないような語を含んでいるし、曖昧で多義的な表現でかなり水増しされてしまっている。これがいけない。

 ありのままの言語、そして、ありのままの世界から、そこに内在する論理的に完全な言語、そして、論理的に完全な世界を、記号言語を用いて示そう(その助けを借りて読みとろう)、どうやら、ウィトゲンシュタインのモチベーションの片面とはこのようなものであったと思われる。

 そしてこのことは、論理的に完全な言語というものを直接的に提示することはできないという主張も含んでいる。これは幾何学を例にとるとわかりやすいだろう。僕たちは「これこそが正真正銘の三角形です」というようなものは提示することができない。

 それはどうしたって、個別の具体的な三角形になる。ただ、その三角形の特定の性質を捨象して、その三角形が三角形であるというかぎりにおいて考察するなら、その三角形を通して得られた帰結は、任意の三角形一般について当てはまるものである。

 僕たちは個別の三角形について語ることしかできないけれど、それを通して、任意の三角形一般で成立することを示している。ウィトゲンシュタインが論理について考えていたことも、そういうことだろう。純粋に論理的な命題は語りえず、個別の命題によって示されるほかない。

 さて、そのようなわけでウィトゲンシュタインの言語と日常言語の関係はだいたいわかったのではないかと思う。ウィトゲンシュタインのいう「言語」は日常言語とまるっきり別のものというわけでもない。それは言ってみれば、日常言語という衣装を纏って現れる。

 ただ、ひとつ注意したいのは、典型的なプラトニズム的な解説をしておきながらなんだけれど、どうもウィトゲンシュタインは論理についてのプラトニズムには与していないということである。これはとても重要なところなのだけれど、今回はそっとしておきたいと思う。

 というわけで、続きは次回にしたいと思う。それにしても、まさかこんなマラソンになるとは思っていなかったので、正直、僕はちょっとだれてきている。これを読んでいる人もそうだろう、もう少しだけお付き合いいただけたらと思う。いまのところ、いちおう完走する気はあります。(続く)
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by kourick | 2012-06-04 21:00 | 考察