セカイ系など花拳繍腿、 独我論こそ王者の技よ!(三)

 いまでこそ、形式意味論の見解はある程度かしっと分かれているけれど、その黎明期、20世紀初頭は一人の明晰な哲学者のなかでさえ、さまざまな見解が渦巻いていた。もっとも、厳密な分析によって痛し痒しになってしまうところもあって、それは難しいところではある。

 意味論に関しても、比較的近縁にいた三人、フレーゲとラッセルとウィトゲンシュタインにして、三者三様にうまいこと見解が分かれている。さらにウィトゲンシュタインの場合は、その「前期」と「後期」でかなり考え方が変わったと言われている(変わったからこそ、区別されている)。

 しかし、その変化の徴候は 『論考』 にも現れており、『論考』 においてすでに「意味(Sinn)」の取り扱いはおおまかに二通りある。それは言ってみれば、ひとつは「意味の対応説」(「真理条件的意味論」)であり、もうひとつは「意味の使用説」的なにかである。

 ときおり、『論考』 は「真理条件的意味論」だと言われる。『論考』 の言語において「意味論なんてありうるのか?」と思わないこともないけれど、まあ、たしかに、そう読めるところはある。実際、そこかしこにそれに類することが書いてあるのだ(もっとも、本来、事情は逆である)。

 命題が有意味であるというのは、その命題がきちんと事実を描写しているということであり、「命題を理解するということは、その命題が真であるとしたら事実はどうであるかを知ること」である(「4.024」)。意味の担い手は命題であり、命題が事実を語り、意味を示す。

 このとき、「命題は語ったり示したりしないだろ」というのは素朴な感想で、もっともだし、ウィトゲンシュタイン的にもけっこう重要なところだと思う。ただ、それは「死体は語る」というときに「死体は語らねえよ」とマジレスすることとはちょっと異なった事情にあることは押さえておきたい。

 たとえば、交通事故の現場を物理演算エンジンを搭載した3DCGソフトウェアのなかでモデルを使って再現しているような場合を想像してほしい。実際に起きた交通事故(の現場)、これが事実に相当する。そして、シミュレータによる再現(の帰結)、これが命題に相当する。

 ソフトウェアの精度にもよるが、ある用意された変数に初期条件を入力し、プログラムを走らせる。すると、事故発生の経過は可能な状況を辿り、結果は起きえた事態を描写する。何度も試行を繰り返し、その結果が事実と一致したなら、それが真相だろうということになる。

 いや、もっと異なる因果関係によって事実は生じたかもしれないと思う人もいるかもしれない。それはたまたま事実と同じ結果を写しただけで、それのみが真相であるとは限らないのではないか。だが、それはソフトウェアの分解能の問題で、完全な分析が可能なら問題にならない。

 そして、『論考』 の言語というのは、そうした理想的な言語が想定されている。ゆえに、「命題の完全な分析が一つ、そしてただ一つ存在する」と言われる(「3.25」)。地球シミュレータも真っ青の論理的に完全な言語なのだ。これが 『論考』 の言語の具体例を挙げることの難しさでもある。

 ただ、注意しなければならないのは、だからと言って、その言語はなんら抽象的なものではないということだ。少なくとも、ウィトゲンシュタインはそう言っている。どこかにイデア的な理想言語(とその完全な論理)があると想定されているわけではない。このことはあとで触れる。

 さて、結局、なにが言いたいのかというと、この場合、事実を描写するのに試行者はどれほど関与しているだろうかということである。その人はなにかしらの結果を意図してデータを入力したかもしれない。けれど、なにも意図していなかったところで、プログラムは走るだろう。

 言語にはそういった自律性がある。普段、人はなにかしらのことを意図して話すものだけれど、明確な意図のない幼児でも、言語として理解しうることは話しうる。そして、それはまったく幼児の意図したことではないとしても、意味をもった命題として成立しうるものだ。

 要するに、意味というのは「人の頭のなかにあるのではない」ということである。人の頭のなかに意味があって、それを言語にしているわけではない。ウィトゲンシュタインはそのように考える。言語そのものがその意味を担っているというのはそういうことである。

 さて、最初の疑問に戻ると、「命題は語らないだろ」という人は「そうは言っても、私が命題を用いて事実を語るんじゃないの?」「私が私の思考を命題において表現するんでしょ?」と思うかもしれない。「命題が語る」のではなく、「私が(命題を用いて)語る」のだと言いたい。

 それはたしかにもっともだ(と僕は思う)。けれど、このとき、はたして「私」とはいったい誰なのだろうか。思い出してほしい、世界とは事実の総体であり、「ものの総体ではない」のである(「1.1」)。「私」という語に指示される対象が最初にいて、それが思考するのではないのだ。

 命題を分析することによって、語が与えられる、事実を分析することによって、対象が与えられる、これが順序である。『論考』 においては、言語(命題)とそれと対応する世界(事実)、これが思考の前提であり、デカルトのように「思考主体としての私」が前提されるわけではない。

 さて、じゃあ、ここでもう一歩踏み込みたい。思考するための前提だけれど、それには「そもそも思考できる」「思考できてしまう」ということがあるだろう。なにを当たり前のことをと思うかもしれないけれど、これは重要なことである。僕たちは「思考とはなにか」ということすら思考しうる。

 そして、この「思考しうる」ということと対になるようにして「理解しうる」ということも前提として言いうるだろう。「理解」というのはよくよく考えるとかなり不思議な状態(あるいは現象)だが、僕たちはそもそも思考でき、思考を表現したものを理解しうる。これはどうしてだろうか。

 (ちなみに、前提ということを考えるとき、思考を表現するための装置というのはなにかしら必要になるだろう。それは通常の場合、各人のボディということになるだろうけれど、原理的には、そうである必要もないことになるのか否か。これは「5.621」とも関係する)

 ちょっと話を戻そう。たしかに 『論考』 には真理条件的な意味の理解があるのだけれど、これには問題もあって、それは 『論考』 がメタ言語を欠いているということだ。命題を理解するとは事実どうであるかを知ることだが、しかし、そもそも、どうして命題を理解できるのだろう。

 それはもちろん、「事実どうであるかを知ることができるからでしょう?」と思われるかもしれない。だが、「事実どうであるか」ということは「命題によってはじめて描写される」のであって、それを知るためには、結局のところ、命題を理解しなければいけないだろう。

 たしかに「命題を理解する」ということの内実は「事実どうであるかを知ること」だとしよう。だとしても、そもそもどうして「命題を理解できる」のかというのが、ここでの疑問である。現在なら、「メタ言語によって説明する」というようなことがいえるだろう。

 だが、『論考』 において、その命題を説明する命題というようなものはありえないし(あったとしても無限背進)、命題が自分自身を語るということもない(「3.332」)。それでは、ある命題の根源的な理解とはどのようにして得られるものなのだろうか。(続く)
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by kourick | 2012-06-02 20:00 | 考察