セカイ系など花拳繍腿、 独我論こそ王者の技よ!(始)

 言語習得の途上にある子供と接したことのある人は覚えがあるのではないかと思うけれど、そうした子供に文章を「読んでごらん」と言うと、たいてい声に出して読む。それが発達の必然なのかどうかはちょっとわからないけれど、音読できないのに黙読できるということはまずない。

 もっとも、文字言語よりも音声言語のほうを先に習得することになるだろうから、これは当たり前というと当たり前のことかもしれない。そもそもそうでないのなら、「読む」という行為自体が成立しない。「読む」という行為を「文字を音声にすること」と把握するとそうなる。

 しかし、大人になるとそうともかぎらないわけで、普段、なにかを読むというときにやおら音読を始める人はそういないだろう。大人が黙って文字を眺めているのを見て、子供が「なにをしているのだろう」と奇妙に思わない理解力には天才的なものがある(思っているのかな)。

 黙読している人を指して「あれ、なにしてるの?」と音読しかできない子供に訊いたら、「あれはね、本を読んでるんだよ」とか教えてくれるかもしれない。そして、自分も同じ格好をして本を開くのだ。彼はいま、本を読んでいるのだろうか、いないのだろうか。

 音読ならチェックするのが容易だけれど、黙読だと傍目からはわからない。「じゃあ、声に出してごらん」ということになる。僕にとってそれは「読んでいるふり」だけれど、彼にとっては「読んでいる」のかもしれない。「読む」という行為はどこまで「読めている」という実績を伴うのか。

 さておき、音声を文字に、聴覚的な情報を視覚的な情報に変換できるというのは、成長過程におけるちょっとした発見には違いない(人類の歴史で考えるなら、数万年はかかっている)。あるいは、あまりにもありふれたことなので、これといってなにも思わないだろうか。

 ピアジェとヴィゴツキーの論争で有名だけれど、コミュニケーションの道具としての言語のことを「外言」といい、思考の道具としての言語のことを「内言」という。たぶんではあるけれど、黙読というのは、この内言を用いないといけないから難しいのだろうというのが拙速な理解だ。

 子供がよくひとりごとを言っているのは、問題を解決しようとする過程でその「外言」を内面化していっているのだと考えられている。そうして内面化された言語が「内言」である。僕もよく「頭のなかで喋る」けれど、これは「内言」を用いている。あるいは、これこそが「内言」である。

 人は普段、思考を伝達しようとして喋る。しかし、発達的には、なにかを伝達しようとして用いる言語が内面化して、思考できるようになると考えられる。じゃあ、僕たちはそもそもなにを伝達しようとしていたのだろう。言語化される前の広い意味合いでの思考とはいったいなんだろう。

 それは意図なのか欲求なのかもっとほかのなにかなのか、あるいはそんなものない(行為のみある)のだろうか。しかしまあ、どのようなレイヤを想定するにせよ、子供たちは暗闇のなかから意味を生み出しているわけではない。それは訓練され、学習されるものである。

 一定のコードは子供の誕生に先立って成立しており、それは共同体において担保されている。それを子供たちは養育者(環境)から学習し、使用し、応用する。さて、そんなわけで導入が無駄に長いけれど、今回はウィトゲンシュタインの独我論をみてみたいと思う。

 これはわりと解釈の余地のあるところで、いろいろな人がいろいろなことを書いているのだけれど、正直、それらを読んでもちょっと理解できなかったので、僕は僕なりに勝手に読もうかなと思う。そもそも僕は、独我論のなんたるかというものがいまいちわかっていないのだ。

 独我論にはいろんなバージョンがあるけれど、なににせよ、その肝にあるのは「この私の特別さっていったいなんなんだ!」というワンダーなセンスのようだ。「私」というときに、他の何者でもない、まさに「この私」であることの不思議さ、これが独我論の肝にある(みたいだ)。

 かの涼宮のハルヒも似たようなことを言っていたような気がするし、誰しも子供の頃に一度は考えてみることのようなのだけれど、実のところ、僕はこれがいまいちわからない(哲学的なセンスがない)。言っていることはわかる(ような気がする)のだけれど、やはりどうもわからない。

 むしろ僕は、僕の意識はけっこう自動的な感じがしている。たんに普段からぼうっとしているだけと言われるとそうかもしれないけれど、主体として明確な自己意識を保持しているのかといわれると、いささかこころもとない。内省はできるものの、どこか他人事のような感覚もある。

 もしかすると、これも独我論から照射される問題なのかもしれないけれど、通常の独我論のような、主体性の濃さからくる個我の統制感よりも、むしろ主体性の薄さからくる個我の空虚感のほうが切実な問題のように僕には感じられるのだ。僕の「私感」は離人症的なまでに薄い。

 僕はどちらかというと意識の主体性というようなものよりも、意識の追従性というようなものほうに不思議さを感じている。わりと意識が状況を後追いしているようなところがあって、エピソード記憶もほとんどないし、ふっと我に返って自己を同定しているようなところがある。

 思うに、僕が僕として、僕が僕のように生活を続けるために、僕の意識はもはや、さして必要ないのではないか(と、「僕」はいま思っている)。そうであったとしても、僕は環境に適応し、僕であることを続けるだろう。むしろ、意識のほうがイレギュラで、生活を邪魔することすらある。

 もっとも独我論というのはそういう精神病理や社会病理のような心理学的な問題意識ではなく、もっと形而上学的な問題意識なんだよと言われるとたしかにそうかもしれない。だとすると、僕の存在の問題はもはや哲学の範疇にはないということで、まあ、これもそうかもしれない。

 僕というものをトータルで考えるときに、意識のあるほう(自我)にプライオリティを持たせるのは、まさにそれを考えているのが自我なので仕方のないところもあるが、いまいちフェアな感じもしない。欠席裁判じゃないか。僕は意識のないときの僕もけっこう信頼しているんだが。

 というわけで、『論考』 の独我論なんだけれども、この独我論が面白いのは、それが出発点というよりも到達点の先に現れることかなと僕は思っている。順番としては「世界」→「言語」→「私の言語」→「私の世界」からの「自我」となっていて、これは(なぜか)逆向きも成立する。

 さて、こう書いたところでわけわかめで、「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前んなかではな」というだけのことになってしまうので、実際にテキストをみてみることにしよう。僕は、この独我論は 『論考』 だけからわかりたいと思うし、それでわからないなら、わからない。(続く)
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by kourick | 2012-05-26 20:00 | 考察