うるさいから、創っちゃった・・・世界(・ω<)

 いまどき「世界は・・・」などと統一的に語ろうものなら、かなり危険なそうとうヤバイぶっちぎりでイカレたヤツじゃないかと思われかねないが、ウィトゲンシュタインの 『論考』 はそんなふうにして始まる。しかもそれが、どういうわけか格好良い。その巧みな「空中戦」に痺れるのである。

 もっとも後期の「泥臭さ」のほうが渋いよという人もいて(『論考』 も泥臭いと思うが)、そのあたりは個人の好みということになっている。ただ、していることはそう変わらない。前期と後期は鮮やかな対比を示すのだけれど、ウィトゲンシュタイン自身のスタイルは一貫しており連続している。

 いや、むしろ逆だろう。ウィトゲンシュタインのスタイルが一貫して連続しているからこそ、前期と後期は鮮やかな対比を示す。後期は 『論考』 をも成立せしめた世界の探究が行われる。だから、彼にとって、それを一冊の完結した書物にまとめられないのはたぶん必然だったのだ。

 ウィトゲンシュタインは 『論考』 において、バベルの図書館にある書物の有意味な命題すべてをマークアップすることに成功した。しかし、『論考』 自身もバベルの図書館の一冊だということに気付いてしまう。自分はどうして 『論考』 を書けたのか。この「謎」の探究が後期の仕事だ。

 さて、そんなこんなでまたちょっと書いてみたいと思うのは、前回の補足も兼ねて、『論考』 の「世界」についてだ。といっても、『論考』 における分析の最小単位は命題(ないしはそれに対応する事実)なので、まずは「1」の全体を見ることから始めてみよう。
1  Die Welt ist alles, was der Fall ist.
1  The world is everything that is the case.
1  世界は成立していることがらの総体である。
 冒頭の「Die Welt」は英訳版だと「The world」になり、日本語だと定冠詞の「Die」に対応するものはないが(これは大きなニュアンスの違いだ)、つまり、「世界」である。ちなみに「Welt」の「W」が大文字なのは、ドイツ語の名詞だからというだけで特別な含みはない。

 さてはて、そもそもこの命題はいったいなんなのだろうか。なんなのかという言い方もないが、要するに、この「ist」はどういう働きをしているのかということだ。それは繋辞なのか等号なのか存在の表現なのか(「3.323」)、等号だとしたら、それは定義なのか再認判断なのか。

 これは簡単なように見えて、意外と難しい。「話すというのは類語反復に陥ることさ」とあっけらかんとできるならよいのだが、そうは言ってもどうにもならない。もっとも手っ取り早いのは、これはウィトゲンシュタインという神による「そういうものなんだよ」という「託宣」だという理解だろう。

 これはけっこう本気の冗談だ。定義でいいじゃんと思われるかもしれないけれど、定義だとするとこれは「世界」の定義ということになり、「言語」と対応している「世界」をその外側から定義するということは「言語」の外側から定義するということになり、ウィトゲンシュタインにはできない。

 そもそも定義とはなんだろうかという方向には進まないことにしよう。そうしたら次は、じゃあ、なにかしらの主張ということじゃないかと思われるかもしれないけれど、主張だとするとこれは「世界」と「成立していることがらの総体」が表現しているものは「同一だ」という主張になるだろう。

 ウィトゲンシュタインは「二つの表現の指示対象が同一であると主張することはできない」(6.2322)と言っている。なぜか。端的に言うと、私がそれらの指示対象を把握しているのなら「同一だ」などと主張する必要はないし、把握していないならそもそもその主張はできないからである。

 ゆえに、そうした命題は「私が二つの表現を検討する観点を指し示すにすぎない。すなわち、指示対象の等しさという観点から見よ」(6.2323)というわけである。つまり、「これ、そういうことになってっから! 見てみ、ほら! ね?」ということだ。「示唆」と言われる行為に近いだろう。

 前回のことを踏まえると、これこそまさに「解明」というところのものである。とりわけ、「1」から「2.063」は存在論をしていると言われ、どうすんだこれみたいな命題の集まりになっている。この部分を「なるほど、そういうことにしておこう」と受け容れられるかどうかはかなり大きい。

 特に「1」は始まりにして全てみたいな感じで奥深い。人は普段、「世界」という言葉を使っていても、それがどういうものなのか厳密に追究することはないし、そんなことができるとも思わない。だが、ウィトゲンシュタインは「世界はある!」という意志からその完全な記述を試みた。

 世界とは成立していることがらの総体である(「1」)。成立していることがらとは事実である(「1.1」)。事実は命題によって描写される(「2.1」→「2.182」「2.19」→「3」→「3.1」)。そうして表現された命題もまた、ひとつの事実である(「2.141」「3.14」)。

 事実を描写している命題は、それ自身がひとつの事実である。さて、このとき、「1」という命題もひとつの事実である。ということは、「世界は事実の総体である」というときの「事実」のなかに命題「世界は事実の総体である」自身もまた含まれている。

 すると、「世界は事実の総体である」という命題自身のなかに当の命題が含まれていることになり、一見、世界が延々とネストしているように見える。世界の内側に世界が、世界の外側に世界があるように見える。この循環は悪性のものではないものの気になるものではある。

 ウィトゲンシュタインが 『論考』 に 『論考』 を適用するというようなことや、引用の問題をどう考えていたのかはわからないけれど、「1」から「2.063」の命題に現れる「世界」は、そうした循環を先取りして成立している包括的全体として把握するのが、たぶん適当だろう。

 たとえば、「2.063」までを見てみよう。世界とは成立していることがらの総体である(「1」)。成立していることがらとは事実である(「1.1」)。事実は事態の成立である(「2」)。事態の成立・不成立が現実である(「2.06」)。現実の全体が世界である(「2.063」)。

 これ、一見、変じゃないだろうか。この変さは「1.13」も参照するとわかりやすい。そこでは「論理空間のなかにある諸事実、それが世界である」と言われる。これを素直に受け取ると、論理空間というものがあって、そのなかには成立している事態と成立していない事態がある。

 そして、その成立しているほうの事態の総体が「世界」である。ということは、論理空間のなかには成立していない事態というものが残され、そっちは「世界」には含まれないということになりそうだ。「世界」とそこに残された事態を合わせて「現実」と思ってしまいそうになる。

 つまり、「現実」のほうが「世界」より大きい。「2.06」までを読んでいるとそう思ってしまう。だが、違う。ウィトゲンシュタインは「2.063」でそれをすべて回収にかかる。いわく、「現実の全体が世界」である。これはいったいどういうことなのか(「3.01」「4.26」とかも)。こう考えるしかない。

 まず、僕たちは「世界」に直面する。それは「成立していることがら」すなわち「事実」の集まりであり、そこから理解の道は始まる。そこで「成立していることがら」がわかったとなると、僕たちは同時に「なにが成立していないのか」もわかったことになる(「2.05」)。

 要するに、「2.063」においては、成立していることがらは成立しているという仕方で成立しており、成立していないことがらは成立していないという仕方で成立している。「成立していることがら」も「成立していないことがら」も、いずれにせよ、ある仕方で「成立している」ということだ。

 このような押さえかたをするなら、「2.06」に書かれる「否定的事実」という不可解な表現も、それなりきに納得できるかたちで理解できることになる。ただ、依然として、「否定的事実」という表現が不注意なものであることは否めない。けれど、まあ、それはいい。

 あるいは、こういう言い方もできる。成立している事態は事実なのだから、世界の一部である。成立していない事態は事実ではないのだから、世界のうちに現れてはこない。ただそれは、成立している事実の可能性として世界のうちに含まれてはいる。世界は可能性に満ちている。

 とんちかよ、という感じだが、そういうことである。ウィトゲンシュタインの「世界」は一個の包括的全体性をもっている。だが、もし知識状態という観点からみるなら、「1」の「世界」と「2.063」の「世界」は明らかに異なっている。そこで「世界」は更新(発展)されていると言っていいだろう。

 なぜなら、「1」では「成立していることがらしか知らない」が、「2.063」では「成立していないことがらも「成立していない」という仕方で知っている」ということになるからだ。けれど、この書物はそういう書物ではない。だから、あるいみ、この書物の全命題は同時に成立していないといけない。

 同時に成立している命題群を「どこから読み始めるか」というのはちょっとした難題だが、最終的に全部読むなら「どこから読んでもかまわない」ということなので、気楽というと気楽ではある。小説だったら、後ろから読むと時間は逆行するものだけれど、『論考』 はしない。

 さて、ここまで書いておいてなんだけれど、実は上記したようなネストはウィトゲンシュタインによると起こりえない。それはおもにラッセルのタイプ理論を非難している箇所で言われている(特に「3.333」)。けど、書いた。「世界」に関して、ちょっと腑に落ちなかったからである。

 というわけで、「5.54」からの命題的態度はどうなってるんだとか、「5.6」からの独我論はどうなってるんだとか、もうちょっと気になるところはあるかもしれないけれど、このあたりにしておこうと思う。最後にギャグみたいな一節が 『論考』 にあるので、それを引用しておしまいにしたい。
神がある命題を真とする世界を創造するならば、同時に神はまた、その命題から帰結するすべての命題が真となる世界をも創造するのである。同様に、命題「p」が真となる世界を創造しておきながら、命題「p」に関わる諸対象の全体を創造しないなどということもありえない。(「5.123」)
命題は、そこから帰結するすべての命題を肯定する。(「5.124」)

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by kourick | 2012-05-01 22:00 | 考察