神によって書かれた神話のなかに神はいるか

 久々にウィトゲンシュタインの 『論考』 を読んだので、ちょっとなにか書いてみようかなと思う。というわけで、今回、読んでいて思ったのは、『論考』 というのは内容的には「6.54」で終わっていて、あの印象的な「7」というのは余分なんだなということ。

 ただ、もし「6.54」で終わっていたとすると「なにか足りない」という気持ちにはなったかもしれない。そう考えると、やはり「7」というのは必要で、余分なんだけれど、それがあるからこそ完成している。言ってみたら、「。」や「蓋」のようなもので、それがないと収まりが悪い。

 しかし、本来的には、「7」は内容の一節というよりも、タイトルのような位置にあったほうがふさわしかった感じもする(シュールレアリスティックな皮肉も効いている)。まあ、そんな性格の異なる一文が内容に入っちゃっているあたりもウィトゲンシュタイン的なのかもしれない。

 ウィトゲンシュタインはメタ言語というような位置のものをどのように把握していたのだろう。「どうせ最終的には対象言語に回収されなきゃいけないのだから、はなから言語に階層性など設けられない」というモチベーションはあったのだろうとは思うけれど、どうなんだろうか。

 ただ、「言語の単層性」や「(真偽を問いうる)世界の包括性」みたいなものに拘ったというのには、どこか共感できるものもある。要するに真面目なのだ。言語の外側の言語や言語を説明する言語というようなものを認めると無限背進してしまう。ギリシャ的な忌避感だろうか。

 『論理哲学論考』 は1922年に出版されており、1944年のタルスキの「真理定義」論文にはまだちょっと時間があるけれど、「言語の階層性」というアイディアはすでにあったし(「ラッセルの解説」「6.12」)、「対象領域の相対化」というアイディアもちょうど出始めたころだ。

 ただ、ウィトゲンシュタインの場合、あえてそういったアイディアを使わなかったふしがある。そして感動的なのは、そういったアイディアを使わずに 『論考』 という箱庭を、これといった破綻なしに書けてしまったということだ(僕は基本的に破綻していないと思っている)。

 たとえば、原始記号の意味をメタ言語を使わずにどうやって与えているだろう。これは「3.26」に書かれている。原始記号は定義できない。なぜかというと、定義に使われる記号こそが原始記号じゃないといけないからである。じゃあ、どうやってわたしは原始記号の意味を知るのか。

 ウィトゲンシュタインは言う。「記号において表現されえないことを、記号の使用が示す」。これはつまり、後期にフィーチャーされることになる「意味の使用説」だ。この「記号の使用においてその意味を示す行為」をウィトゲンシュタインは「解明(Erläuterung)」という。

 たぶん断定していいんじゃないかと思うけれど、これはフレーゲのいう「解明」からきているだろう。それは人工言語の意味を日常言語で説明するというような場合に使われる。構図としては、対象言語の意味をメタ言語で説明するということに似ているが、さて、どうなのか。

 フレーゲの場合はさておき、このウィトゲンシュタインの場合に重要なのは「辞書は使えない」ということだ。原始記号の意味を説明できる辞書はない。なぜなら、原始記号の意味を知るということが「辞書を作る」という作業に他ならないからである。ないものは使えない。

 だから、原始記号の意味を明確に把握するためには、その記号が「現に使える」という状況がすでにあるということが重要になる。それゆえ、ウィトゲンシュタインは「それらの記号の意味にすでに馴染んでいる人だけが、解明を理解しうる」(3.263)と言った。

 これは序文の「本書は、ここに表されている思想をすでに自ら考えたことのある人にだけ理解されるだろう」という宣言ともリンクしており、「6.54」において「梯子を登りきる」(=解明を終了する)に至る、壮大な伏線になっている。そこが語りきって示し終わった地点である。

 はっきり言って、これは正直、論点先取にも思われる。というのも、これから示したいのは世界の限界/思考の限界/言語(意味)の限界であって、それは言語を考察することで進められるのだけれど、ウィトゲンシュタインの場合、そのときに使われる言語はまさに当の言語だからだ。

 ただ、これは仕方ない。世界の内側から世界の全体を、思考の内側から思考の全体を、意味の内側から意味の全体を、「永遠の相のもと」(6.45)で理解しようというのがウィトゲンシュタインのプランだからである。だから、これは仕方ないものとして、どうするかという発想になる。

 たぶん、「語る」と「示す」という言葉の使い分けというのは、このあたりの怪しさを回避するための方便なんじゃないかなと思う。わかったようでわからないのが、この「語る」と「示す」の違いだ。意外と、このことの理解というのは読む人によって異なっているのではないだろうか。

 「語る」は「説明」で「示す」は「記述」だとか、「示されうることは語りえない」「語りえないものは示されるほかない」とかわかったようなわからないようなことを言われる。ありていに言ってしまうと、前提(語るための条件)として働いているものは示されるほかないという分けになる。

 ただ、僕が思うに、「語る」にせよ「示す」にせよ、なにかを提示しようとするためには、まずは語らないといけないだろう。示すためには語らなければいけない。言語を用いるのなら、そうする以外に「示す」手立てはない。そして実は、これがなかなかの窮境だ。

 というのも、ウィトゲンシュタインは「語りうることを語り」「語りえないことを語らない」ためにその限界を提示しようとしているのだけれど、その限界を示すためには語らないといけないからだ。語れることと語れないことがまだ示されていないのに、語ることから始めないといけない。

 これはウィトゲンシュタインだけが感じた窮境だろうが、これが窮境じゃなかったらなにが窮境なのか。これはいわゆるひとつの無言に至る病だが、ウィトゲンシュタインがここでそれに罹患しなかったのは僥倖だ。しかし、このことをウィトゲンシュタインが意識していなかったとは思えない。

 その反応がまさに「6.54」なのではないかと思う。ウィトゲンシュタインはそこで「私を理解する人は、私の命題を通り抜け、それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気付く」と言う。読者はいきなり、ここまで読んできたものは全部、ナンセンスなのだと宣告される。

 なぜか。どうして 『論考』 の諸命題はナンセンスなのだろうか。それは、論考の諸命題に対応する事実など、世界のなかにはないからである。探しても見付からないということではない、原理的にないのだ。実例を挙げることもできるが(たぶん「1」なんかがそう)、結論から言おう。

 どうして 『論考』 の諸命題がナンセンスかというと、『論考』 と「世界」を対応付けようと思ったら、世界の外側に出ないといけないからである。そしてもちろん、人にそんなことはできないのだ。だからこそ、ウィトゲンシュタインは「登った梯子を投げ棄てろ」(6.54)と忠告する。

 ウィトゲンシュタインは語りえないことを一冊使って語りきり、その全体を示した。読者はウィトゲンシュタインの立っていた場所に立ち、彼が見たであろう光景を見る。それですべては示されており、もはや、それ以上に語るものはなにもない。『論考』 は語りえない。ゆえに、投げ棄てよ。

 『論考』 の世界に人間はいないし、変化もない。それは別に珍しいことではないが、『論考』 が変わっているのは「世界だけはある」ということだ。それは、誰もが 『論考』 を通して覗き見ることができる。そして僕たちは「世界の見方」というものを教えられるのだ。

 『論考』 というのは世界の限界を語った書物だが、最後まで読み通したとき始めて、『論考』 というのはウィトゲンシュタインという神によって世界の限界が示された書物だったということがわかるようになっている。こうして、ウィトゲンシュタインの世界の解明は終わる。そして沈黙へ。

 さて、この後、後期の「生活形式」「言語ゲーム」に向かう展開にも、さながら浮遊大陸から飛空艇エンタープライズ号に乗って飛び出したときのように感動するものがあるけれど、ひとまずこれでおしまいにしておこうと思う。それにしても、なんというか、これはもう感想ではないな。
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by kourick | 2012-04-25 20:00 | 考察