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まるで白米のように面白さを味わう僕たち

 不味いもの(自分の口に合わないもの)には理由があるけれど、「美味しいものに理由はない」という発想は、誰もが抱いたことがあるだろう。主観に引き寄せられる感覚の場合、「美味しいから美味しいんだ」というトートロジーを否定することはできない。そう思うから、そうなのだ。

 納豆はネバネバしていて気持ち悪いじゃんと言われたところで、いや、ネバネバしていて気持ち悪いかもしれないけど美味いよと言われたらそれまでで(美味さという感覚を問うかぎりは)どうにもならない。それでも、美味しさを疑うことは可能だし、美味しさを説明することも可能だ。

 どうしてそんなことをする必要があるのかというのはもっともな意見かもしれないが、そうした考察が感覚の精度を細かにするというのももっともだろう。少なくとも、送り手は美味しさを考察し、追究している。僕はそうした考察と、そして、その過程で生まれる批評もけっこう好きだ。

 ハンバーガーは美味しい(と僕は思う)が、さまざまな理由からハンバーガーを決して食べない人もいる。そういう人は、ときにハンバーガーというものを否定する。それはそれでけっこうなことで、それを「美味いんだから食えばいいだろ」と一蹴することはやはり噛み合っていない。

 というか、僕の場合は「食べられるもので不味いものはない」というような程度の低い人間なので、美味しさをどうこうというのはちょっとわからなかったりする。あそこのラーメンは美味しいと言われるとたしかに美味いのだけれど、不味いラーメンを食べたことがなかったりもする。

 そして、今日は暖かいななどと思って街を歩いているときに「今日は日差しはあるけど、肌寒いね」などと言われると、とたんに寒気を感じるというようなこともあって、挙句に「今日はちょっと寒いな」なんて言い出しかねないので、人の認識というのはあてにならない。

 たしかに感覚は誤らないものかもしれないが、感覚をどのように認識するかという判断は、ちょっとしたきっかけで容易に覆る。価値観が多様化した昨今、人の好みを論じることは軽いタブーになっているように思うけれど、人の感覚を論じるようなことはもっとあって良いと僕は思う。

 というのも、僕がもっとそういうものを読みたいというだけの話なのだけれど、自分自身がそういうことをしようとは思わない。そんなことをすると硬軟巧みな煽りを喰らって、僕のガラスのハートが粉みじんに砕け散ってしまうからである。割ったほうも少し怪我をするかもしれない。

 だが、自分の好きなものに対して「いかに好きか」ということを「馬鹿になってみせる」ことによって表現するのはもう、ちょっといいかなとは思っている。言葉にならない好きさをそうした仕方で競争するのは、するほうもみるほうも疲れるんじゃなかろうか。

 しかし、正直、こんなに面白いものが溢れかえっているときに、なにかを客観的に批評するという行為にどれほどの積極的な意義があるのかと思わないこともない。いまどき、「面白い」ということは結果ではない、もはや前提である。楽しむから面白いというより、面白いから楽しむのだ。

 ただでさえ面白いはずなのに、それを楽しんじゃったらもうチョー楽しいじゃんというわけである。だから、「普通に面白い」という表現が生まれる。これは自分の想い入れはないけれど、まあ、良いんじゃないのという、感情的に一歩引いた表現だ。わかるわかる、みたいな感じ。

 いまの時代は人類史上、これまでもこれからも、たぶん、もっとも情報に溢れている時代なんじゃないかと僕は思っているけれど、いまや「面白いのは当たり前」である。そうじゃなきゃ、見向きもされない。むしろ、面白さの上にどれだけの付加価値があるかを試されている。

 なるほど、つまりこれは食べ物と同じ道を辿っている。美味いのは当たり前、面白いのは当たり前。江戸時代の人たちが白米を食って「そんなもんばかり食ってると脚気になるぞ」と言われても、「いや、けど美味いし」みたいなことを言っていたのと同じである(同じか?)。

 キリンの首は長いけれど(脚も長いから、もしかすると胴体が短いのかもしれないが)、あれは「樹の葉を食みたい」と思ったから伸びたわけではない。そういう目的論的な発想は、少なくとも現代の生物学ではしない。キリンは首が伸びちゃったから、樹の葉を食むようになったのだ。

 要するに、目的が先にあって変化が生じたとは(率直には)考えない。結果を事実として認め、それに説明を加えて納得するのである。批評においても、「美味しさ」「面白さ」は目的ではない。それらは説明によってそうなるのではない。成立している結果から、思考が始まる。

 「美味い!」「面白い!」と思った肯定的な感情をいかにして表現するかというときに、「面白すぎて、だから、こんなことしちゃいました!」と爆発的に表現することもあれば、「ここがこうなっていて、だから、面白いですよ」と分析的に表現することもある。どちらも方法だろう。

 さて、相変わらず、とりとめもないことを書いているけれど、書いた傍から「キリンの首は関係ないんじゃないかな」と思い出している。いつから関係ないことは書いてはいけないことになったのかわからないけれど、関係ないところに飛躍しているあたり、僕らしい楽しみ方ではある。
by kourick | 2012-03-15 00:00 | 随想