ソクラテス先生のシラバスが学生任せなのはガチ

 その昔、「徳は教えられうるか」という質問をしたのはプラトンが描写するところのメノンである。この質問にソクラテスは「そもそも徳とは何か」という反問で応えた。これは本質規定の試み、定義の試みとして有名なので知っている人も多いかと思う。

 このソクラテスの反問にメノンはいろいろと定義してみせるが、あれもだめこれもだめとソクラテスに反駁されてしまう。「定義」というメタな試みには言語の階層性か無定義語を必要とするわけだけれど、もちろん当時はそんな道具は用意されていない。

 しかし、用意されていたところで、メノンの疑問は解消できただろうか。メノンの「じゃあ、人は自分の知らないものをどうして探究できるのか」という質問はソクラテスの解答よりも面白い。「なにか」を探究するとき、その「なにか」がわかっていないと探究できないじゃないかということだ。

 なににせよ、メノンのこの質問にソクラテスは「探究するということは、魂が生前に得た知識(イデア)を想起(アナムネーシス)することだぜ」と答えた。これが後に、かの有名なイデア論(&想起説)に繋がる。まあ、それはさておき、徳は教えられうるのだろうか。

 ソクラテスは「徳が知識であるなら教えられうる」と言う。そして、教えられうるなら教えている人がいるはずだ。けれど、徳を(しっかりと)教えられている人なんていない。だから、まずもって徳は知識じゃない。けど、有徳の人というのはいるから、彼らは「正しい思惑」をもっている。

 この正しい思惑をもっている人というのは、人を正しい方向に導けるわけだけれど、その「正しい思惑」というのは神の恵みによって人間に備わるんだよごにょごにょと、最終的にソクラテスも誤魔化している。いや、ソクラテスだからこそ誤魔化しているのかもしれない。

 この結論自体は、そう悪いものでもないんじゃないかと僕は思うけれど、「神の恵み」とか言い出すところはまあ、正直なんだかなという気持ちもないではない。むしろ「正しい思惑」のその正しさをいかにして規定するかという方向性のほうが建設的だったかもしれない。

 しかしそんなことを言い出すとまた「正しさ」の定義に逆戻りするので、イデアの方向に突き抜けるのがプラトンの描写するところのソクラテスとしては正解だっただろう。ちなみに、ギリシア的な「徳(アレテー)」というのは、現代の「道徳(モラル)」とはちょっと意味合いが異なる。

 しかしそんなことはお構いなしに道徳の話をすると、「道徳は教えられるのか」という論争は基本的にはソクラテスとメノンの感覚の違いからそう変わってはいないかもしれない。過去には教育勅語に「修身」があったし、現在では「道徳」の授業はある。

 けれど、その「道徳」の時間でなにか道徳的なことが教えられるのかというと、どうだろう。知識としてなにかを伝授している気配はない。現場の先生たちも正直、これには困っているだろう。そもそも、いま求められる道徳についての社会的な議論自体が足りていない。

 大抵、NHKの番組を見せたりしてお茶を濁しているのではないか。倫理的な問題を軸に議論でもできるなら良いのだけれど、日本人は本当に議論というものが苦手だ。それはもう大人にとっても致命的で、日本の社会・文化に子供に提供できるほどの議論のリソースはないだろう。

 というか、日常の学校生活の全体がすでに道徳教育になっているというのもある。学級経営の半分はそこにある。海外では道徳というのは宗教が担っていたりするが、日本では空気がそれを担っている。そして、空気の読み方(良心の使い方)は日常の指導のなかにあるのだ。

 だから、とりわけ「道徳」の時間にすることがないということはあるかもしれない。むしろ、教師が児童・生徒になんらかの価値判断を指導すること自体が、保護者や管理職には嫌われがちだ。道徳に関しては、海外ではそれで成功しているからといって、日本で通用する保証はない。
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by kourick | 2012-02-06 00:00 | 考察