あんまり平たいこと言ってると丸めるからな(後編)

 年を越し、さあ、そろそろ後編を書いてみようと思うのだけれど、正直、僕はちょっと緊張している。というのも、前・中編を読むかぎり、やりようによってはおよそ正反対の教訓すら引き出しうるように、僕には思われるからだ。とはいえ、まあ、あまり客観的にならないように、やってみよう。

 さて、地球球体説である。前回、前々回、僕は実際に疑ってみた。かなり素人臭のする懐疑かもしれないけれど、こんなものだろう。これだけ真面目に思考していて、もし「だから、それは科学的に否定されているから」などと説教されてしまったら、それは「科学」を嫌いにもなろうというものだ。

 しかしまあ、地球球体説を疑う人の言っていることはどこかおかしい、そうじゃなきゃいけないと思う人は多いだろう。疑うことを否定することと同義だと思い、屁理屈を捏ねられているように感じる人もいるだろう。そういった人は、まあ、自分のなかの常識を疑われるのがうざったいのだろう。

 だから、「科学的に否定されている」などといったことを言ってしまう。それは要するに「考えるのが面倒臭い」とか「説明できない」という意味であり、だったらそう言えばいいのだが、ついつい科学に責任転嫁してしまう。この手の無責任さは道徳教育などにおいても見られるが、罪深いものだ。

 このようなことを言うとき、その人は「科学的である」ということをどのように理解しているだろう。むしろ、科学的事実を盾にして相手の思考を封殺しているだけではないか。だとすると、残念ながら、それは「科学的な態度」とは言い難い。それは学識ある大人の姿ではないだろう。

 ところで、前々回から、科学の名のもとに人々を小馬鹿にする人物を、さも当然のように登場させているが、しかし実際、そのように人を辟易させるのが得意な人というのは(まあまあ)いるものである。そして、僕は無知よりも、その種の傲慢さにより強い虚しさを覚えるのだ。

 というわけで、僕はここで「科学の方法論」や「科学と宗教」といったことよりむしろ、「学問的な態度」ということを言いたいわけである。主張の再現性や反証可能性、説明能力の高さといったことは重要だし、事実が信じることとは無関係に成立しているという認識は、たしかに重要なことだ。

 しかし、それもこれも、「知ろうとする」という意欲あってのことである。この段階においては「信じようとする」と言い換えてもよいかもしれない。「わからなさ」や「疑い」のただなかにあって、よりもっともらしいものに漸近しようとする意志、それを損なわないようにしたい、してほしいと思うのだ。

 それゆえ僕は、学問的思考のエッセンスは、よりもっともらしい説明を求め、思考錯誤することを惜しまない精神にあるのだろうと思っている。要するに、軽々には「断定しない」ということである。曖昧な領域に留まりながら地道な検証作業を積み重ね、確からしさを高めるということだ。

 踏み止まる、我慢する、悩む、疑う、そして、その足踏みのなかから思い切って一歩を踏み出す、たぶんこうだろう、こう考えないとおかしいと主張する。こうした慎重さが、学問的な態度には必要である。そのときにこそ、自分の意見に対する自負や責任感が生まれる。

 しかし、どうしてそんなことをするのか。これはけっこう難しい問題である。そもそも僕自身、そんなことができているのかというと、いささかこころもとないところがある。まあしかし、それは自分の道徳心に自信がなかったとしても、子供を躾けないといけないというのと同じことかもしれない。

 「どうして科学的な物の見方を身に付けなきゃいけないの」と質問されたら、僕はその相手によって返答の仕方が変わるだろう。しかし、結局のところは、科学的な世界観というものを自分の現実として持っているということはスマートなことなのだと身をもって示したいとは思うのである。

 これもまあ、いちおう、ちょっと変則的な科学論ということができるのかもしれない。こういった問答はややカウンセリングの様相を呈しているが、科学というのはもはや日常の基礎にあるものなのだから、そこからの逸脱を修正できるような姿勢というのは大切だろう。

 だから、科学の柔軟さを硬直させないようなストレッチというのは、たまにはしたほうが良いのである。つまりどういうことか。人の話を聴き、一緒に考えてみるということである。考えるということを通して結論を出し、考え方自身を意識するようにしてみるということかなと思う。

 というわけで、本当に地球は丸いのだろうか。もし誰か、僕のテキストに目を通して地球が球体ではないと思った人はいるだろうか。いないだろう、そりゃそうである。疑いうるということは、まだ、なんらその疑われるところのもののもっともらしさを損なうものではない。

 実際、この疑っている人物は疑ってみせているだけで、その結論は保留している。充分な情報を提供し、一緒に考えてくれる人が身近にいたなら、そう心配せずとももっともな理解に到達するだろう。それに、今回はたまたま地球は球体だったが、そうじゃないこともあるかもしれない。

 そう考えるのならば、仮に円盤状の惑星が存在するとして、そのためにはどのような条件が整っている必要があるのか、その場合、どのような現象が生じうるのかと探究を進めることもできるだろう。そうすると、これはもはや非科学的とは限らない。考えることの自由は、こういうところにある。
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by kourick | 2012-01-04 23:00 | 考察