あんまり平たいこと言ってると丸めるからな(中編)

 ところで、わたしはどうやって「地球は球体である」ということを常識として受け容れたのだろう。見たことも確かめたこともないことを、どうやってわたしは受け容れたのだ。わたしは日常生活のどこかで、一度でも地球の丸みを感じたことがあっただろうか。いや、ない。

 むしろ、球体だとするとおかしいことのほうが多いのではないか。目の前の道を直進すると同じ場所に後ろから到着するというのは変じゃないか。いや、それより、もし球体だとすると、上のほうにいる人は良いけれど、横とか下にいる人は宇宙に落ちて行ってしまうだろう。おかしいぞ。

 だが、僕は知っている、地球には引力というものがあって、物というのは下に落ちるのではなく、物が落ちる方向を下と言うのである。だが、これはいかにも詭弁染みている。この「目には見えない力」を提唱したニュートンだって、最初は「オカルトだ」と非難されたのだ。疑わしいものである。

 じゃあ、どうやって僕はこの常識を獲得したのか。それは学校で習ったからである。大人たちから、この世界(あるいは社会、文化、共同体)の先住者たちから習ったのだ。教科書を見ると、様々な惑星が球体で描かれている。地球儀なんて、そのままである。わたしはいま、そこにいる。

 だが、それははたして確実なのだろうか。教科書が誤りうるということを、僕たちは知っている。むしろそれは日常茶飯事といってもいい。教科書は真実の書物ではない。先生は地球が球体であることを確かめたのだろうか。どうして先生は宇宙飛行士じゃないんですか!と胸をドンドンしたい。

 それにしても、教師たちはいったいどうやって「地球が球体である」ということを教えていただろう。僕は理科の時間を思い出す。地球球体説の根拠はふたつあった。ひとつは「地平線の丸さ」であり、ひとつは「船の見え方」である。よし、これを自分で検証しよう、とあなたは思う。

 先生は「陸地ではわからないけれど、岬の突端から地平線を眺めると地球の丸さがわかるよ」と言った。なるほどたしかに、見渡すかぎり地平線のような視界の開けたところなら地球の丸みもわかることだろう。僕は実際、それを試したことがある。神威岬と宗谷岬と足摺岬の突端に立った。

 青い空、青い海、青いものしかないので地平線も青そうなものだが、地平線を青いと言ってよいものか、僕は少し悩んだ。ぼんやりと白みのあるゾーンが空と海の明確な境界を覆い隠している。地平線というのはどこからでも確認できるのに、どこにも存在しない。不思議なものである。

 僕は地平線を見る。「ほら、丸いでしょう」と言われたら、たしかに丸い。しかし、「ほら、あれはね、一見丸そうに見えるけど、本当はまっすぐなんだよ」と言われたら、たぶん、まっすぐにも見えただろう。人間の知覚というのは不確かなもので、目の錯覚という現象があることを僕は知っていた。

 「視界が広いと遠近感が顕著になるから端のほうは丸まって見えるんだよ」とか、「眼球は丸いから横のほうから入ってくる光は少し曲がって脳内で処理されちゃうんだよ」とか言われたら、そんなような気もしてくるだろう。これでは地球が丸いかどうかはわからない。地球は丸い以前にデカい。

 じゃあ、もう片方はどうだろう。先生は「地球というのは丸いから、船が沖に行ってしまうときは船体から消えていくし、沖から戻ってくるときは帆先から見えてくるんだよ」と言った。なるほど、地球が丸いならそうなるはずだ。僕は実際、それを試したことがある。小樽と函館と苫小牧で船を眺めた。

 はっきり言って、これは嘘と言っていいと思う。手心を加えるなら、誇張といったところか。船体だとか帆先だとか部分がどうこうという以前に、「遠すぎて船全体が見えなくなる」が正解である。高倍率の望遠鏡などがあれば確認できたのかもしれないが、残念ながら僕は持っていなかった。

 それに「沖のほうが波が高いから、船体から見えなくなるんだよ」と言われたら、そうかなという気になっただろうし、「沖のほうが海面付近の気温が低いから、光が屈折して、船体から消えるように見えるんだよ」とか言われたら、それはそれで説得力があったに違いない。

 要するに、地球球体説の根拠はどちらも不十分である。それらはたしかに、「もし地球が球体であるなら」どうなるかということを理論的に説明してはいるかもしれないが、残念ながら、それらは「地球が球体である」ことの証明にはなっていない。おい、地球、お前ホントに丸いのか?(続く)
[PR]
by kourick | 2011-12-29 18:30 | 考察