あんまり平たいこと言ってると丸めるからな(前編)

 「Flat Earth Society」なる団体を御存知だろうか。逐語的に訳すなら「平面地球協会」といったところだろうか、その名の通り、「地球は平面である」という主張をしている団体である。この「平面である」という主張のなかには「地球は球体ではない」という主張も含まれている。

 100年前ならまだしも、人類が地球の重力を振り切って早50年、人工衛星がクルクルと無数に地球を廻り、国際宇宙ステーションに常にクルーが滞在するような御時世、「地球は平面の円盤である」という主張には言い逃れしようのない滑稽さが漂っている。

 ある人は彼らを馬鹿にするかもしれないし、ある人は間違ったことを子供たちに教えるなと憤るかもしれない、ある人は彼らが社会的な悪であるかのように断罪するかもしれない。かもしれないかもしれないと言ったが、実際のところ、人々は彼らを「阿呆らしい集団だ」と見下すだろう。

 なるほど、たしかに彼らは間違っている。地球は球体なのであり、平面ではない。それが事実である。しかし、それは端的に誤りなのであり、彼らを笑うこととは無縁である。しかし、大勢の人が彼らの主張を笑うだろう。どうしてか。あまりにも「地球は球体だ」ということが当たり前だからである。

 「地球は球体である」ということは、科学の発展により知ることのできた事実であり、大勢の人によってその知識が共有されているからである。それに対して、「地球は平面である」という主張は、まるで御伽噺の世界に迷い込んだような印象を与える。たわいない空想に思われる。

 だが、彼らの主張をいったん留保して、私たちの主張を検討するなら、そして、彼らを笑うときに感じる居心地の悪さを正直に受け止めるなら、僕たちは幾つかの教訓を読み取ることができる。いちおう言っておくけれど、僕も「地球は球体だ」と思っている。当たり前である。

 さて、いまこの文章を読んでいる人のなかで、「地球が球体である」ことを証明できる人はいるだろうか。少なくともそうでなければ、彼らの主張を無視することはできても、彼らを馬鹿にすることはできない。もし、あなたが宇宙飛行士なのなら簡単だ。「わたしは見てきた」と言うことができる。

 それを相手が信用するかどうかはさておき、実際に見てきたのだから自信を持っていい。しかしたぶん、あなたは宇宙飛行士ではないのではないか。じゃあ、どうしてあなたは地球が球体だと思うのか。宇宙飛行士やその家族に聞いたからという人は、けっこういるかもしれない。

 ガガーリンから「地球は丸かった」ということを聞いたり、ガガーリンの家族から「丸かったって言ってたよ」とか聞いたことのある人もいるだろう。僕はそうではないが、そういう人もいるだろう。だが、伝聞の信憑性が低いということを僕たちは知っているし、人の噂は頻繁に誤るものである。

 じゃあ、そもそもの、もっと専門家に訊いてみたらどうだろうか。NASA の発表で「地球は球体だ」というものもあるだろう。これなら信用できるか。いや、それも NASA の捏造かもしれない。実際、そういう噂もあるではないか。政府から莫大な予算を取るために嘘を吐いているのかもしれない。

 だが、宇宙からのビデオテープが残っているし、写真もある。いやしかし、僕たちはもう、CG や VFX によって本当は存在しないものが、あたかも存在しているように動きまわる映像や画像を見てきている。その程度の証拠を提示されたところで疑わしいものである。本当に宇宙に行ったのか?

 それに NASA なら、そういったことをやりそうなものである。人はそう思う。そういう意味では、凄まじいほどの「NASA」の説得力である。NASA が嘘を吐いているということになると、宇宙飛行士たちの証言も怪しいものだ。そもそも、少数の意見を根拠なしに信じるのは危険じゃないか。

 NASA が信用できないということになると、JAXA も、他の機関も信用できない。専門書を読めという人がいるかもしれない。しかし、文献を漁るなら、地球を円盤に描いている書物もたくさんあるのだ。自分で直接見たわけではないという条件では、球体だろうが円盤だろうが一緒である。

 いや、直接見たということをことさら信頼するのも、どうだろう。人は見誤ることがあるし、蜃気楼や夢のようにその場所に存在しないことすらある。平面地球だと重要な理論が破綻すると言う人もいるかもしれないが、じゃあ、実例を挙げてと言われると、答えに窮する人も多いのではないか。

 本当に地球は球体なのか。そろそろ心配になり始める。どうして人々はなんの疑いもなく、それを信じているのだろう。普段は疑り深い人たちが、大勢の常識になっているというだけで確信し、自分たちと異なる意見の人たちを攻撃している。なにかおかしいんじゃないか、とあなたは思う。

 科学的事実を正義として用いる人々の科学的盲目さを、どのように胸のうちに収めたらよいだろう。これでは異教徒弾圧と同じようなものである。あの美徳であった宗教的寛容すら、ここにはない。科学的探究に寛容さなど不必要だが、科学の効用とは相手を沈黙させるためにあるのか。(続く)
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by kourick | 2011-12-28 17:00 | 考察