っべー、リヴァイアさんまじパネェっす

 「善く行くものは轍迹なし」とは老子の言葉で、僕も理想とするところではあるが、歴史に名を残す人というのもまた、やはり偉大なものである。たいていの場合、彼らはそれまでにあったものを否定すること、超克することで新しいことを為す。とりわけ思想の潮流に関してはそう言える。

 そういうとき、思想家はおおまかに三種類に分けられる。「作る人」「作るために壊す人」「壊す人」の三種類である。ソクラテスは壊す人だ。アリストテレスは作る人だろうか。バークリは作るために壊す人かな。ニーチェはもちろん壊す人だ。そして、ルソーも壊す人である。

 ルソーが壊すものは権威だったり理論だったり、そういう通常の思想家が相手にするところのものではない。最初から、ルソーがゆさぶっているのは価値観である。彼を苛立たせるのは彼を抑圧するもの、というか、彼に押し付けられるもの全部かもしれない。

 ルソーの「したいようにさせろよ!」という駄々を落ち着かせようとするものには、その効用を見定めることなしに手当たり次第に反発するから、その結果として、性悪説的な人間観に基礎付けられて築かれてきた社会の秩序を根底から覆す主張になっているという感じだろうか。

 たとえば、わかりやすい例としては、社会契約説におけるホッブズとの違いを見てみよう。ホッブズは自然状態において、人は「万人の万人に対する闘争」状態に陥ると考えていた。というのも、現実社会ではさまざまな階級による秩序があるが、自然状態では皆が均質で自由だからである。

 自由だからこそ奪い合うというわけである。ニュースで見たことのある光景だ。自然状態において、人は自己保存のために「なにをしてもいい自由」と「あらゆるものを手に入れる権利」を持つ。これがホッブズのいう自然権(理論的に皆が持っていて当然の権利)である。

 生き延びるためになにをしてもいい権利があったら人はどうするか。ホッブズは考える。たぶんいま、これを読んでいる人の念頭に浮かんだことと同じことをホッブズは思った。ああ、こりゃ奪い合うね、たまに殺すわ。逆に言うと、そう考える人は奪われたり、殺されたりする可能性もある。

 この自然状態を一言でまとめるなら「サザンクロスシティ」である。人間というのは「おれつえー!」「でもこえー!」の二種類の情念を持っているとホッブズは考えていた。オレ強いから奪うけど、オレ強いけど奪われるかも、なにそれこわい。ここに自己保存のための自然権の矛盾が露呈する。

 生き延びるためになにをしてもよいというのが自由なのだが、皆が自由であるがゆえに皆の自由が侵されてしまう。じゃあ、皆でその自然権を放棄することを約束して、遵守することにしましょう。こうした契約によって作り出された絶対主権が、すなわち国家である、とホッブズは言った。

 ひとりひとりの自然権を集めて錬成された人工的人間、それが人造人型決戦兵器リヴァイアサンなのである。このおかげで人々は自然状態の恐怖から解放される。だが、この生き物は国民の契約に由来しているので変更も否定もできない。また、たまに内乱という怪物ビヒモスと戦ったりする。

 さて、こうしたホッブズの考えは、性悪説的な人間観に基礎付けられていると言ってもいいだろう。ちょっと先鋭化されてはいるけれど、こうした価値観というのは、当時の人にとっても(渋々であろうとも)納得できるものだっただろう。これはおそらく、常識の延長線上にあった価値観だ。

 人間は弱い、無知であるなら愚かでもある。自然に任せたままだと、人は粗野な獣と変わらない。自堕落を教化して、奔放な欲望を抑え付け、道徳と法律で秩序を与えなければならない。それは聖職者と統治者の務めであり、人々を人間にするために必要なことである。こういう感じだ。

 ちなみに、いまでも欧米においては人間の獣性は嫌われる。八重歯や尖った耳が忌み嫌われるのは、それが獣性を帯びているからである。これはたぶん、かなり感覚的なものだ。穢れの思想から、日本人が他人の茶碗や箸を使うことを忌み嫌うというようなことに似ているだろう。

 ツラツラと書いているせいか、どうも長文になってしまい、なかなか先に進まない。時代の反逆児ルソーのことは次回に書きたい。ちなみにロックの自然状態は、ホッブズの自然状態に「他者危害の原則」がビルトインされているようなものである(専門家に怒られそうな理解だ)。
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by kourick | 2011-12-22 20:00 | 考察