大人の階段は大人によって作られる

 フランスの歴史家、フィリップ・アリエスが 『<子供>の誕生』 を発表したのは1960年のことだ。Amazon を見ると子供に<>が付いていないが、これは誤りで、山鉤括弧を付けるのが正しい。つまり、ここにおける「子供」というのは、近代的な「子供という概念」という意味である。

 このアリエスの著書は、とりたてて読む価値のあるものではないけれど、一読の味わいはある作品となっている。あるいはこの著書に限らずとも、「子供とはなにか」という眼差しは、翻っては「大人とはなにか」という視点を逆照射するため、大勢にとって面白いものかもしれない。

 子供を「子供」として区別するということは、良かれと思って大人のやりだしたことだが、「子供を大人から排除する」ことが子供にとってありがたいことかどうかは不明である。まあ、人権としての必然であるかもしれないが、大人のいう「子供」が「大人ではない」というだけのこともままある。

 優先されるのは「大人」である。大人の社会である。そこから子供は排除される。そして、教育され、統合される。簡単な話である。そうしておいて、面倒臭いことに大人というのは「子供」にいろいろなものを託す。そこに郷愁を感じることもあれば、無垢や素朴を期待することもある。

 本来であるなら、子供自身が子供とはどういうものなのかを語ることができたらよいのだけれど、子供とはなにかを語ることのできる子供が、はたして子供を代表しているかという問題はある。語弊を承知で言うならば、子供とは無知であり、無知であるからこそ子供だからである。

 ここには「我慢」という行為に似た不可能性がある。我慢というものを「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ」ことだとすると、辛抱や忍耐の上位版としての「真の我慢」とでもいうべきものは、「我慢できないことを我慢する」ことだ。できないことをせよ、という内なる指令である。

 とすると、本来、我慢とは不可能な行為である。だが、人は我慢する。我慢できる。その不可能性に直面し、なお、自身の言動を胸のうちに思い留めることができる、これはどういうことだろう。もしかすると、これは精神論だからこそできる、正当なる詭弁なのだろうか。

 ここにはふたつの見方があると思う。ひとつは「我慢は次第にできるようになる」という成長による我慢の拡張という見方であり、もうひとつは「真の我慢は認識できない、できたとしても語れない」という我慢の不可知論である。いや、そんなことはどうでもよいのだ。

 子供である。「子供」でなにか書こうと思い、僕は最初、ルソーを考えた。ルソーというのは知れば知るほどろくでもない人だったが、よくよく考えて見ると18世紀のフランスにはろくでもない人しかいない(偏見である)。にしてもルソーは出色のろくでなしだ。だが、ルソーを読む価値はある。

 そんなこんなで、ルソーのなにかを書こうと思っているうちに、ヴォルテールとベネディクトゥス14世の対話を打っていた。それがこれである。

 理想郷におけるエピローグ
 http://kourick.net/Durant.htm

 これはウィル・デュラントの 『世界の歴史』(全32巻)の第29巻に収められている対話である。おそらくデュラント夫妻の創作だと思うけれど、これがよくできていて面白い。もともとそんな気はなかったのだけれど、ところどころちょっと笑ってしまったので打たせてもらった。

 デュラントの 『世界の歴史』 はそれほど評価の高い歴史書ではないかもしれないけれど、僕はけっこう好きで読んでいる。というわけで、今週はこのあたりのことを書けたらよいかなと思っている。しかし、こういう予定を立ててしまうと、途端にやる気が失せてくるから不思議である。
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by kourick | 2011-12-18 23:00 | 考察