稗田阿礼(28)「だが男だ」

 さて、そもそも古事記は、なんのために編まれたのだろうか。意図は定かではないが、目的ははっきりしている。それは、古事記の筆録者・太安萬侶(おおのやすまろ)の書いた序文によると、「帝紀(天皇の系譜)と旧辞(古代の伝承)を削偽定実すること」である。
 聞いたところによると、「諸氏族が持っている帝紀と本辞は、すでに真実とは異なり、虚偽が加えられている」そうだ。いまのうちに誤りを正しておかないと、近いうちに本旨が失われてしまうだろう。
(中略)
 だから、帝紀を一書にまとめて、旧辞を詳細に検討して、偽りを削り、実を定め、後の世に伝えたい。(意訳)
 これは天武天皇の言である。そして、天皇は手を打った。
ここに舎人あり。氏は稗田、名は阿礼、28歳。人となり聡明にして、一目見たら誦めるし、一度聴いたら記憶できた。そこで天武帝は、阿礼に命じて、帝紀と旧辞を誦習させた。(こっちも意訳)
 さて、ここで謎の人物、阿礼、登場である。舎人とあるため、もちろん男性だ。しかし、天武天皇は「したいなー」と手を打ったものの、完成はしなかった。天武天皇から、持統天皇、文武天皇と続き、実に元明天皇の代になってから、ふと思い出したように太安萬侶に詔が下る。
稗田阿礼の誦める帝紀と旧辞を一書にまとめて献上しなさい。
 これが711年9月18日のことである。このとき、稗田阿礼は何歳だったのだろう。生没年不詳なのではっきりしないが、天武天皇の在位が672年から686年なので、若くて53歳、老いていたら67歳、わりと高齢だ。このとき、太安萬侶も55歳前後だったのではないかと考えられている。

 そうして撰進されるのが712年1月28日であるから、実に四ヶ月あまりで完成したことになる。これは早い。古事記の編纂は、平城京遷都(710年3月10日)にあたっての修史事業の一環だったのだろうと思うが、叔父の忘れ形見はしっかり成長していたのである。

 常識的に考えて、太安萬侶に詔が下った段階で、現在の古事記のもととなる資料というのは完成していただろう。要するに「ソースは阿礼!」という感じである。これは天武天皇のチェックの入った由緒正しい記録と記憶だ。有象無象の記録と口承から厳選されたソースである。

 想像であるけれど、このとき、数多ある断片的な文献・口承資料を集め、書かれた古語や話の整合性をチェックしたのは稗田阿礼だったのだろう。数学者によってそれぞれ好き勝手に使っていた記号の用法をまとめることになったデカルトみたいなものである。

 そうして稗田阿礼の言挙げする「正しい歴史」を太安萬侶が改めて文字に起こす。これは一種の儀式であろう。また、このときの太安萬侶の発想、その姿勢にも感服するものがあるので、古事記の序文に書かれた本人の言葉をみてみよう。ここにあるのは最古の凡例である。
しかし、古の時代のことは、言(ことば)と意(こころ)がどっちも朴(すなほ)なので、文章にしようとするとき、漢字を使って表現することが難しいものです。

漢字の訓を使って述べようとすると、詞(ことば)が心(こころ)と一致しないし、漢字の音を使って書き連ねようとすると、文章が見た目に長すぎる。

なので、ある場合は音と訓を交えたし、場合によっては、訓のみで書きました。そういうとき、文脈が分かりにくいものには註を付けました。ただ、音註をあまり付けすぎると煩雑になってしまうので、わかりやすいものに関しては省いたよ。(もちろん意訳)
 これである。当時の公文書は、およそ漢文によって書かれていたわけだけれど、それでは本意が伝えられないと安萬侶は思った。どういうことか。卑近ではあるが、わかりやすい例を挙げよう。「おしっこ」は漢字で「尿」と表記するが、普段の生活で「尿」と発することがあるだろうか。

 子供に「尿、してきなさい」とは言わないだろう。こういう言葉はけっこうある。漢字というのは現代においても書き言葉としてのみ機能していることが少なくない。外国語を勉強していても、うまくニュアンスが表現できず翻訳しづらい言葉は「ひらがなの言葉」であることが多い。

 それはこの社会・文化の生活に寄り添っている言葉だからである。魂が宿っているのだ。「おしっこ」に魂が! さて、古事記は本来、天武天皇が稗田阿礼に誦習させたものである。もともと、口承性の強い作品なのだ。だが、記録に残そうとすると漢字を使わざるをえない。

 そこで太安萬侶は苦心して、上記の様な序文を書いた。具体的な例を挙げると、「おしっこ」を「尿」としたり「於此子」みたいに書いた(仮にそうだとしても、もっと言い方がないものか)。このあたり、古事記が「日本の古語・古意によって古代を語った書」といわれる由縁であろう。

 再び、デカルト先生に登場願うと、当時、学術的な文章はラテン語で綴るのが一般的だったのに関わらず、デカルトは1637年、『方法序説』をフランス語で発表した。一般人でも読めるように。もしかすると、太安萬侶にもそういう意図はあったかもしれない。誰でも語り継げるように。

 そして、当時、最新の漢文体という表記法を退け、日本の古語・古意でなければ伝わらないものがあると考えた。こうした歴史認識はなかなかできたものではないと思う。とはいっても、漢字を使わないと表現できない。そこで編み出されたのが、上記のような独創的な表記法である。

 さて、いよいよ、どうしてこんなことを書き連ねているのか、僕自身、行方不明になってきたので、話を戻そう。稗田阿礼は女性だったのかどうかである。Wikipedia にも女性説が載っており、論拠は「猿女君の末裔だから」と「『アレ』は巫女の呼称だから」となっている。

 前者に関しては「猿女君の末裔・稗田氏にも、男性の人間はいただろう」ということで尽きてしまう。舎人は巫女じゃないし。後者に関しては、当時の戸籍を参照すると「アレ(阿礼)」というのはむしろ男性の名称であるそうだ。女性であるなら、「アレメ(阿礼売)」にならないといけない。

 これはたぶん、神名の慣習に倣っているのだろう。アメノウズメノミコトも「ウズメ」である。女神には「メ(女、比売、姫)」などの字が宛てられる。特に巫女を神格化したような存在には特徴的であり、もし阿礼が女性だったのなら、なおさら「メ」は付けられていたに違いない。

 ただ、女性説が広まったということには、なにか納得できるものがあるのも事実だ。少なくとも、僕はそう思う。たとえば、文字を持たないアイヌの口承の物語のことをユカラと言うが、これはどこか女性だけが謡い、語り継いでいるようなイメージがないだろうか。

 これはその行為に先立って、シャーマンだったり、巫女のイメージが浮かぶからだろう。古来、かんなぎには男性が多いわけだけれど、どういうわけか女性のイメージが強い。実際、在野のかんなぎということになると、イタコや歩き巫女のように女性が多かったという事実もあるだろう。

 また、ヒステリー症状を起こす人は女性に多かっただろうから、いわゆる神憑り的な状態に陥るのは感受性の強い女性が多かっただろう。そうしたトランス状態が、儀式における感情的な側面としての神秘性を担っていたというのは想像できる。

 つまり、こういった民間のイメージが稗田阿礼を女性にしていった。漢文という男の学問のスペシャリスト・太安萬侶に誦み聴かせをした可愛らしい阿礼(?)が男性のわけがない! 要するに、稗田阿礼は日本史上初の「男の娘」だったのだ! だが男だ。
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by kourick | 2011-12-13 20:00 | 考察