七色のうおー!

 「元始、女性は実に太陽であった」と言ったのは平塚らいてうである。ときは1911年、『青鞜』の創刊号に載せられた宣言文のはじまりだ。らいてう、実に26歳であった。この一文は有名なキャッチフレーズになっているが、この文章の全体を読んだことはあるだろうか。

 折角なので是非、一度、目を通していただきたい。らいてうという人は彼女自身、時代の求めに応じた一人の天才だったのだろうが、僕はやはり、個人的にはノーサンキューといったところである。どうも自分の筆致に酔っている。しかし、その若さに任せた勢いが絶対的に必要だったのだろう。

 本人はオーギュスト・ロダンに共感して感動していたようだけれど、僕が傍から見たイメージとしてはオランプ・ド・グージュに被る。なににおいても創始者というのは別格に数えられるべきものではあるが、はっきり言って、らいてうの宣言文は「なに言ってるかわからない」の境地である。

 僕なりに簡単にまとめると「うおー! ワタシは自由だー! 止めるな! ワタシを止めるな! ていうか、来いよ! わたしはいまちょーすごい! いまから魂のステージを登るぞ! お前たちも来い! 行け行け行っちゃえ! お前も行っちゃえ! ロダンかっけー!」という感じだ。

 最初の「うおー!」の部分が「元始、女性は実に太陽であった」に相当する。この「うおー!」は本文中でもちょいちょい挿入されるので、大事な掛け声である。誰かが「先生、正直、ちょっと意味わかりません。あと、落ち着いて下さい」とマジレスしなかったのは、らいてうの人間力だろう。

 彼女は熱狂の人、内なる嵐に身を任せる人だったのだと僕は思う。これは別に平塚らいてうを馬鹿にしているわけではない。らいてうという人はこのあと晩年までいろいろある人だが、結局のところ、この「うおー!」を様々な仕方で吐き出していたんじゃないかなと思うだけである。

 さて、ところで、そもそもではあるが、「元始、女性は実に太陽であった」とはどういう意味なのだろうか。僕の知っている限り、むろん女性は人間なのであって太陽ではない。ちなみに、よくある間違いだけれども、この一文の始まりは「元始」であって「原始」ではない。

 となるとやはり、神話的なイメージが湧き上がる。すぐに思い当たるのはアマテラスだろう。だが、アマテラスは男神であるところのイザナギが禊ぎをしたときにその目から産まれているので、ちょっといまいちではないか。むしろ元始の女神なら、メジャーなところでイザナミあたりが妥当だろう。

 というかである、この文の続きを読んでみよう。

「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である」

 読んでわかるように、「元始」と始まっているわりに、ここで扱われている日月というのはずいぶんと近代的なメタファなのである。しかも、月の扱いが酷い。その一方、このあとには国生みの神話を意識しているように思われる箇所もあり、まあ、いろいろと混乱している気配がある。

 だが、思うに、これは混乱でもなんでもないんである。要するに、このあたりは全部、らいてうが「それいいじゃん、かっけー」と思ったものを切り貼りして自分の言いたいことをまとめているだけなのだ。つまり、細かいことはいいのである。僕が「うおー!」の人だなと思うのはこういうところだ。

 ひとつひとつを精査していったらきりがないし、そういうことをすると逆によくわからないんである。言いたいことが先にあって、言いたくて言いたくて仕方ない人というのは、えてしてそういうものだ。エネルギに満ちているときというのは、よくまとまっていないものなのである。

 そして、そういう人はときにとても魅力的だ(おいおい、ちょっとうっとうしいなと思うことになるが)。「ん?」とかどこかで思ってしまったら、それはもう駄目なのである。らいてうの思う「わたしかっけー!」「これうまいよね!」が連続してぶちまけられているところに、読者はなんか感動するのだ。

 こういう「うおー!」の人が言論には必要なものである。
[PR]
by kourick | 2011-12-06 19:00 | 考察