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 言っていなかったし、僕も予期していなかったのだけれど、最終回は前後編になっている。というわけで、前回はフィナーレ、今回がグランドフィナーレである。「なっげぇし、おわらねえ」と思ったわけではない。それでは、ウィトゲンシュタインの独我論のもう半分をみてみることにしよう。

 前回は、「私」という語の使われ方に少し触れ、「私の言語」の内実をみて、「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」ということの含意するところをみた。その肝は、ザックリいって「私は世界の外側には立てない」ということだった。世界を外側から眺めることはできない。

 なるほど、ということは、私は世界の内側にいることになりそうだ。と、思いそうなところなのだけれど、そうではないのである。私は世界の内側にもいない。世界が私の世界のかぎりそうなる。これがウィトゲンシュタインの提示する独我論に迫るためのもう半分である。

 ウィトゲンシュタインによると、私は私の世界の外側にはいないし、内側にもいない。じゃあ、どこにいるのか。外側にも内側にもいないなら、どこにもいねぇじゃねぇか。素直に考えるとそうなる(そして、これはあるいみ正しい)。だが、もっと考えるとそれもおかしいということになる。

 というのも、「私の世界」の外側にも内側にも「私」はいないからどこにもいないということになると、そもそもそれはもう「私の世界」ではなく、ただの「世界」でしかないだろう。私の言語によって描写される私の世界のどこかに、それを私のものたらしめているなにかはあるだろう。

 そうしたなにかがなければいけないように思われる。とはいえ、これはちょっと先走りすぎている。まずは「私は私の世界の内側にもいない」ということをきちんとみることにしよう。そうすることによって、独我としての私のありかたもわかる(はずだ)。
思考し表象する主体は存在しない。(「5.631」)
 さて、順番だと「5.62」「5.621」「5.63」をみたいところだが、実のところ、この段階ではまだそれらはわからない。というのも、そこに書かれていることの説明が始まるのは「5.631」からだからだ。だから、さきにその説明をみることにしよう。

 ここでいわれている「存在しない」というのは「世界のうちに現れない」ということである。それはつまり、言語として表現することができないということであり、語りえないということである。この関係性には散々、触れてきたので(納得できるかはさておき)もう押さえられていると思う。

 さて、じゃあ、どうして「主体としての私」は世界のうちに現れないのだろうか。ウィトゲンシュタインはこれに対して、実質的に一個の説明を与えている。「5.631」の後半と、「5.633」からの「眼と視野の比喩」がそれである。サクッと引用することにしよう。
「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても報告が為され、また、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか等が語られねばならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である。つまり、この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。(「5.631」)
世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。
(「5.633」)
 これは一見難しい感じがするけれど、実のところ、とても単純なことを言っている。「私の見出した世界」には「私」についてのことがらも網羅されている。だがそのとき、その本のなかには「語られた私」が現れるのみであり、そのなかに「語っている私」は決して現れない。

 僕は自分について語ることができる。たとえば、僕は五体満足であるとか、左足首に子供の頃の怪我のあとがあるとか、耳を動かすことができるとかそういうことは語れる。それは世界のなかに現れている、語りうることである。だからあるいみ、私は私について語ることができる。

 しかし、それを語っている私は決してその世界のなかに現れない。いあいあ、いま現れたんじゃないか?と思われるかもしれない。「それを語っている私」といま言ったじゃないか。だがそうすると、「それを語っている私」を語っている私はいったい何者なんだということになるだろう。

 そっちがまさに「語っている私」である。私は私について語る、そのとき、語られた私は世界のうちに現れる。だが、それを「語っている私」は現れない。もしそれを語ろうとしたとしても、それを語った瞬間に、それは「語られた私」になっている。

 という次第で、どこまでいっても「語っている私」は語りによっては捉えきれない。しかし、『論考』 においては語ることによってしか世界のうちに現れるすべはない。ゆえに、「語っている私」はまさに語りえない。かくして、世界のなかに形而上学的主体は存在しえない。
つまり、視野はけっしてこのような形をしてはいないのである。(「5.6331」)
セカイ系など花拳繍腿、 独我論こそ王者の技よ!(終)_c0157225_18271291.gif
君は現実に眼を見ることはない。/そして、視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されない。(「5.633」)
 このようにして言われていることはひとつの比喩(アナロジーによる論証)になっている。「5.633」の冒頭の一節のパロディを作るとわかりやすいだろう。つまり、「視野の中のどこに眼が認められうるのか」ということである。「視野」が「世界」、「眼」が「主体」に相当する。

 視野のなかに眼はない。視野というのは眼に見られているところのものであり、それを見ている眼は視野のなかには現れない。眼で眼を見ることはできない。「主体と世界の関係」は、この「眼と視野の関係」と同じ事情にある。語る私を語ることによって捉えきることはできない。

 というわけで、私の世界の外側にも内側にも(形而上学的主体としての)私は存在しない。独我論を徹底してきた結果、私の世界から「私」が消失してしまった。にもかかわらず、それが「私の世界」であるのはどうしてだろうか。ウィトゲンシュタインは書いている。
世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。(「5.62」)
 さて、問題は「この」である。良識ある人は即座に「どの?」とつっこまねばならない。それはボケとツッコミにゆかりのある文化に生まれた者たちの宿命といえる。これは厳しいところで、ウィトゲンシュタインもここで「私の言語」という言葉を使うことはできなかった。

 なぜなら、ここで「私の言語」といってしまうと、「だから、その私っていうのは誰なのかということを訊いているのです」と言われてしまうからである。ここはもう「この」としか言いようがない。つまり、これはウィトゲンシュタインその人のみが理解する言語ということである。

 といっても、それは僕にも理解できてしまっている(気がしている)のだけれど、まあ、こうした言語の公共性をウィトゲンシュタインがどう考えていたのかは興味深いところ。少なくとも、それを「あてにしている」ことはたしかだ。僕は僕の理解する記号において思考を表現してきた。

 ここで使われている「この」の背後にいなければならない「私」こそが、まさにウィトゲンシュタインその人が本当に語りたかったところの「私」である。それは語りえない、だが、こうして示されてはいる。それはどこにあるとも言えない。そして、ウィトゲンシュタインその人だけが残される。
ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見てとられる。独我論の自我は広がりを欠いた点にまで縮退し、自我に対応する実在が残される。(「5.64」)
 さて、こうして、前回の中盤あたりの出発点に戻ってきた。「この言語」というのは、それによってなにかを表現しようとする人物の用いる記号のことである。ある人物がなにかについて語ろうとする、これが出発点だ。世界についての探究も私についての探究も、そこから始まる。

 世界の探究、つまり、どれだけのことを語りうるのかという探究は、言語を介して行われた。それは同時に、そのように「語ろうとする私」の探究でもあった。これは裏テーマだけれど、「語りうる世界」の探究が「語る私」の探究でもあるのは自然なことだろう。

 ウィトゲンシュタインは「語りうる世界」について、その表現において線を引いた。そして、語りうる世界のみが世界じゃんといった。そのとき、その世界は私の言語によって描写される世界でしかありえないのだから、その外側に私は立ちえない。ゆえに、世界の外側に私はいない。

 じゃあ、内側にいるのかというと、いないということが確認された。世界の内側にも私はない。かくして、世界のどこにも私はおらず、私は消失する。だが、世界を、私を、まさに探究していたはずの自我、私が本当に「私」と言いたいものは、どうして「ここ」にあるのか。
自我は、「世界は私の世界である」ということを通して、哲学に入り込む。(「5.641」)
哲学的自我は人間ではなく、人間の身体でも、心理学が扱うような人間の心でもない。それは形而上学的主体、すなわち世界の――部分ではなく――限界なのである。(「5.641」)
主体は世界に属さない。それは世界の限界である。(「5.632」)
 さて、こういったところでいわれている「限界」というのは少しややこしい。というのも、それは「5.6」で「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」というように使われていた「限界」とはちょっと趣が違うように思われるからである。むしろ、「全体」とか「前提」とかがシックリする。

 僕の理解だと、「5.6」というのはザックリ言って「表現のポテンシャルが存在のポテンシャルを決める」というようなことである。そうした理解における「限界」というのは、いわば「範囲」というか「限度」のことである。「ここまでは語れるけれど、そこからさきはカタツムリ!」というものだ。

 だが、「5.632」「5.641」でいわれている「限界」というのは、そういうことをいっているようには思われない。じゃあ、どういうことだろうか。それはやはり、「5.641」の二段落目がヒントになるんじゃないかと思う。自我は「世界は私の世界である」ということに通して現れるのだ。

 思うに、「5.6」というのは外側に向かって、その限界を定めるものだった。今度はその逆なのである。世界を私の世界として(独我論的に)探究(せざるをえないので、そうやって探究)していった結果、どうやらその世界から「私」が消失してしまうということになってしまった。

 すると、それはもう「私の世界」ではなく、ただの「世界」である。だが、そもそも「世界は私の世界である」ということから出発したのだから、私は世界になにかしらの関与をしていないといけない。つまり、主体としての「私」は「世界が私の世界である」ために残された最後のものである。

 それすら失われてしまうと、世界はもはや私の世界ではないものになってしまう。そうすると、それは眼を欠いた視野のように、もはやなにを意味しているのかわからないものになるだろう。ゆえに、主体としての「私」はミニマムとしての「世界の限界」である。それ以上、いけない。

 というわけで、「私」の話題はおしまいである。ところで、ウィトゲンシュタインの独我論は「独特だ」といわれる。その独特さがどこにあるのかというと、やはり「5.64」の「独我論を徹底すると純粋な実在論と一致する」というあたりはその大きなところかなと思う。

 どうしてそうなるのかというその仕掛けは上記したけれど、そもそも、どこかで一致するような双対性をもったものとして「独我論」と「実在論」を押さえているというところが、ウィトゲンシュタインの独特さなのではないかと思う。ザッと僕なりの説明を試みてみよう。

 僕の理解するウィトゲンシュタインの実在論とはおおまかにいって「世界のなかに私はいる」というものである。世界があって、私がいる。当たり前だけれど、これを実在論と押さえよう。一方の独我論とは「世界のそとに私はいる」というものである。

 これは納得いかない人も多いと思うけれど、独我論とは「(この)世界は私の世界だ」というものだから、「(この)夢は私の夢だ」というときに夢を見ている人が夢の外側にいなければならないように、世界を自分のものにする人も世界の外側にいなければならない。

 ということは、「世界のなかに私はいる」という実在論と「世界のそとに私はいる」という独我論は、直接的な矛盾は惹き起こさないものの両立しえない主張ではある。さて、このとき、ウィトゲンシュタインが主張するのは「世界のなかにもそとにも私はいない」というものである。

 これは「世界のなかに私はいない」と「世界のそとに私はいない」という命題の連言であるけれど、これはそれぞれ、いまみた「実在論」と「独我論」のそれぞれの否定となっている。この地点において、主体としての私はそのどちらをも否定して、縮退する。

 そして、その主体に対応しうる唯一の自我、それを検討していた人物のみが残される。いまみた「独我論」と「実在論」は否定しさったのに、どういうわけか「完全に独我的な自我」と、それに対応する「完全に実在的な人物」だけが最後に残された。これは独特だろう。

 と、いうわけで、いろいろ不足しているところがあるような気もするどころの騒ぎではないことは確定的に明らかなことが五臓六腑に染み渡るけれど、ウィトゲンシュタインの独我論をみてきた。最後に全体を簡単にまとめようと思っていたのだけれど、もう、いいだろう。

 それにしても、最終的に「全十回」という、読む気の失せる長いものになってしまった。これまでお付き合いいただけた方には「どうもどうも」と言いたい。もっと計画的に書いていたらもう少しきれいにまとめられたかもしれないけれど、計画を立てていたら絶対に書かなかったと思う。

 ここに書いてきたことで、新しいものはなにもない。きっとどこかで誰かがもっとわかりやすい仕方で書いているだろう。もし、新しいと感じるところがあったら、それは僕の誤読に起因している。その点は、御容赦いただきたいと同時に、楽しんでいただきたい。

 僕はきちんとこの書物を読むことに努めながらも、その表現については自分の読んだことのないものを書こうとはしてきた。だから、これらのエントリは僕の思考のパッチワークではあるが、そのあたりの解説書からもってきた借り物の表現のパッチワークではない(つもりだ)。

 上級者はにやにやとそのあたりを堪能していただきたい。まあ、そうはいっても、もし僕が読む立場だったら「借り物の表現でいいからしっかりわかりやすい説明はよ」と思うだろう。けれど、まあ、僕の勉強にはなったのでそれでいいかなとは思う。めでたし。(了)
# by kourick | 2012-07-15 20:00 | 考察
 それでは 『論考』 における「独我論」をみていこう。もう、ゴールしてもいいよね? そして、最後に全体のまとめをできたらいいなと思っている。ところで、と、いきなり「ところで」を使うけれど、いまからみる独我論の仕込みはいったいどのあたりから始まっていたのだろう。

 結局のところ「1」からということにはなりそうだけれど、まあ、それはまだ「独我論の開催が決定しました」みたいなものだろう。準備はたしかにそこから始まっている。それでは、当日、競技場に向かって歩き始めたのはどのあたりだろう。僕は「5.54」あたりかなと思っている。

 つまり、「命題的態度」のあたりから「おや?」という印象は受ける。それではウォーミングアップを始めたのはどのあたりだろうか。これは「5.55」だろう。つまり、前回からこっちのあたりである。じゃあ、スタートラインに立ったのは? これはけっこう難しいかもしれない。

 ただ、きっと「5.5561」だろう。そして、スタートのホイッスルが「5.5571」で鳴る。そして、「5.6」から走り出すのだ。ぼけっとみていると「5.6」から不意に独我論が始まったような印象を受けがちだけれど、そうじゃない。折角だから、ちょっと並べてみてみよう。
経験的実在は対象の総体によって限界づけられる。限界は再び要素命題の総体において示される。(「5.5561」)
ア・プリオリな仕方で要素命題を挙げることが私にできないのであれば、要素命題を列挙しようとする試みは、最後にはあからさまなナンセンスに行き着くしかない。(「5.5571」)
私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。(「5.6」)
 さて、まずは「経験的実在」という「はい?」というような言葉が不意に使われている。といっても、この言葉はここでしか使われていないのだけれど、これは前回、「なにはともあれ、なにかがなきゃならん」といっていた「なにか」に相当するものである。

 私たちはそれについての事実を語ろうと思うところの「なにか」に出遭っていなければならない。それについて考え、それの存在を認めようとするところのなにか、これが「経験的実在」といわれているところのものである。なにはともあれ、それがないことには始まらない。

 そして、実際に「なにがあるのか」は世界のうちに「どのような対象があるのか」によって示される。その対象は名に対応しており、名は命題のなかに現れることによって対象を指示する。というわけで、対象は結局のところ、命題を通して知られる。ここまでが「5.5561」である。

 さて、次に「ア・プリオリ」という表現が使われている。これはとても重要な専門用語だけれど、特に難しく考えず、素直に「経験に先立って」といういみで押さえてかまわない。それではウィトゲンシュタインにとって「経験」とはどのようにして与えられるものだっただろう。

 これも前回に少し触れた。『論考』 における経験は、命題として表現されることによって世界のうちに現れる。というわけで、経験は命題という表現によって得られるわけだから、命題は経験に先立って提示されなければならない。これは当然のなりゆきだろう。

 経験よりもさきに言語を使えるというのは奇妙に感じられるかもしれないけれど、経験を語る前に経験を語るための言語が使えなければならないと言い換えるなら、そう奇妙じゃないと感じられるだろう。このパターンのやりとりには飽きてきたかもしれないが、厳格に受け止めよう。

 この「5.5571」の翻訳は訳者によってニュアンスがちょっと異なっていて難しいのだけれど、この一節に現れる「私」というのはどういうことだ?というのは踏みとどまって考えていいポイントだと思う。「5.6」の直前、スタートホイッスルの瞬間、ちょっと時間を止めてみてみよう。

 実のところ、ここまでも「私(ich)」という言葉はけっこう使われていた。以前、『論考』 翻訳集を作ったのだけれど、使う機会は(当たり前だが)なかった。けれど、こういうときはデータをソートできるのでけっこう便利だ。折角だから、「私」の使われているところを網羅してみよう。
「2.0121」「2.0123」「2.01231」「2.013」「2.02331」
「3.12」「3.201」「3.221」「3.31」「3.313」「3.318」
「4.021」「4.0312」「(4.032)」「4.063」「4.1121」「4.122」「4.1252」「4.126」「4.24」「4.241」「(4.243)」「4.461」「4.51」
「5.02」「5.101」「5.132」「5.154」「5.155」「5.234」「5.2521」「5.2522」「5.4733」「5.5」「5.501」「5.502」「5.521」「5.53」「5.531」「5.532」「5.5423」「5.5541」「5.555」「5.5571」
「6.02」「6.1203」「6.2322」「6.2323」「6.341」「6.373」「6.422」「6.4312」「6.54」
 以上の箇所で「私」が使われている。使われ方としては二通りが考えられる。ひとつは「俺はこうするぜ」というように「俺=ウィトゲンシュタインはこうします」というときに使われる場合で、もうひとつは「私」という人一般について「こうなります」みたいに使われる場合である。

 3代なんかは(「3.221」を除いて)「俺=ウィトゲンシュタインはほにゃららを表現するのにむにょららという言葉を使うぜ」みたいなことを言っているので前者、2代なんかは「人はこう考えにゃならんよ。ま、俺もそのなかの一人だけどね」と一般的なことを言っているので後者になる。

 簡単な見分け方としては、「私」に別の表現を代入してみる方法が考えられる。「私」というところに「ウィトゲンシュタイン」以外を代入することができないところは前者、「私」というところに「僕」とか「彼」とか任意の誰かを代入することができるところは後者となるだろう。

 じゃあ、「5.5571」はどっちなんだという話で、素直に読むと、ここは一般的なことをいっているように思われる。のだけれど、事情はそう簡単ではないように僕は思う。というのも、興が乗ってきたのか、途中からはそうはっきりと区別できないように感じるのだ。

 どこまでがベタな使い方をしていて、どこからがメタな使い方なのかというのは意外とわからない。まるで一人称で書かれた叙述トリックもののミステリを読んでいるようなもので、「私」がウィトゲンシュタインのときもあれば、実は「私」は一般的誰かだったみたいなこともある。

 まあ、どっちにしたって、この書物はウィトゲンシュタインが書いているのだから、結局のところ、その「私」というのは具体的にせよ形式的にせよ、とりあえずはウィトゲンシュタインのことを指してしまっている。これはちょっと 『論考』 の構造的なややこしさを感じるところだ。

 『論考』 において、ウィトゲンシュタインはひとつの世界観、言語観を提示する。そのとき、その世界観を提示するために「私、ウィトゲンシュタインはこうする」と語る場合と、その世界観のなかで「私はこうなる」と示す場合と二種類あるというのがややこしいのだろう。

 さて、なんだか無駄に細かいところに突っ込んでいったような気がしてきたけれど、結局のところ、素直にそう感じるところに立ち戻ってみよう。この「5.5571」の「私」は実際になにかを表現しようとする人物のことである。たとえば、ウィトゲンシュタインその人のことだ。

 当たり前すぎて「哲学的じゃない」という印象をうけるかもしれないけれど、哲学をするのに哲学的である必要はない(と言いつつ、この言い草も哲学的かもしれない)。「5.5571」に現れる「私」というのは、「私」と言うことによってなにかを表現しようとしている人物、その人のことである。

 論理的な考察の始まるまえ、言語批判に晒される前の、普段、日常言語において自分についてなにか語るときに使う「私」ということで、思考主体がどうとか難しいことは考慮してはいけない。このことはきっと、またあとでも触れるのでちょっと覚えておいてほしい。

 ちなみに、邦訳に関していうと、『論考』 には「坂井秀寿訳」「奥雅博訳」「黒崎宏訳」「野矢茂樹訳」という代表的な翻訳があるのだけれど、全集に収録されている奥訳は意外にもちょこちょこ「ich」を省略して訳しており、黒崎訳、野矢訳はけっこう律儀に訳している。

 そして、「ich」の訳語ということで興味深いのは坂井訳で、そこでは「わたくし」と「私」に訳しわけている。通常は「わたくし」と訳しており、ここぞというところで「私」が使われる。実に「私」が使われるのは三ケ所だけで、それは「5.62」「5.63」「5.641」である。

 これはまあ、意訳になるだろうから、賛否のあるところだとは思うけれど、日本語にはこれといった主語がないということを利用した面白い措置なんじゃないかなと僕は思う。ただ、これを話し始めると 『論考』 の読解の解釈みたいなことになって万歳なのでさきに進もう。
私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。(「5.6」)
 さて、地道にここまでお付き合いいただけた人にとって、もはやこの一節はそれほど不可思議なものでも、なんだか格好良いだけのものでもないのではないかと思う。とはいえ、「ですよねー」とそのまま納得できるようなものでもないだろう。ちょっと説明を試みてみよう。

 これまでウィトゲンシュタインはもっぱら言語を言語たらしめる条件について語っていたように思われる。では、ここにきてどうして「私の言語」などという言葉が使われることになってしまうのか。というか、「私の言語」というのはいったいどのようなものなのだろうか。

 ふむ、世界についてなにかを語ろうとするとき、僕はその「なにか」について表現する。それが世界を描写する命題として表現できているのかどうかは、その対応関係や論理的関係を確認することでチェックできる。ただ、僕が「なにを」語ろうとしているのかは僕の生活に依拠する。

 それは「経験的実在」といわれていたものだけれど、僕は僕と面識のあるもの、僕の生活のうちにあるものについて語ろうとし、そこからの類推を駆使することによって「なにか」を語ろうとする。そして、そのようにしてしか表現できない。これが「私の言語」の内実だろう。

 つまり、「私の言語」とは「言語の条件を満たしている僕の日常言語」のことである、というのが僕の理解である。僕個人のことをいうと、僕は日本語とちょっとした外国語、そして、ちょっとした形式言語(も日常言語の範疇にある、か?)をメインに使う。これが「僕の言語」の背景である。

 いや、もっと正確に言うと、絵なども含まれるだろうか。ただ、絵は下手なので複雑なものを表現することはできないだろう。ということで、これが「僕の言語の限界」を定める。それらが世界を描写する言語として僕の思考を表現するのに使用可能な記号の限界である。

 そして、それは「僕の世界の限界」を意味する。言語が世界と対応していたように、僕の言語が言語としての条件を満たしているのなら、僕の言語はある世界と対応している。それはきっと僕の世界だろう。そしてまた、僕の言語の限界は僕の世界の限界と対応している。

 というわけで、僕は僕の生活のうちにあるなにかについてのみ語ることができる。僕は「あるもの」についてのみ語れる。ところで、これはけっこう厳しい条件になっている。なぜかというと、僕は僕の生活のうちに「ないもの」については語れないということになってしまうからである。
われわれは、論理の内側にいて、「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。(「5.61」)
 このように言われている。なるほどたしかに「世界のうちには存在するものしか現れない」のだから、これまでの話の流れだとそうなるのだけれど、これだと、僕たちが通常「言語」と呼ぶもので語っている(と思っている)ことの多くは「実は言語になっていない」ということになってしまう。

 たとえば、「ミノフスキー粒子」とそれが「レーダー誘導兵器を無効化することによってもたらした戦術・戦略的影響」とかは世界について語っているものではないので、言葉を使って表現しているけれど言語じゃないということになる。まあ、このあたりはまだどうにでもできる。

 困るのは、僕の生活のうちに現れていているものについてしか語れないということになると、科学理論などにおいて理論上想定されるようなものの存在も語れないことになりかねないことだ。このあたりは 『論考』 の難点だろう(「5.5542」や「3.328」の後半はどう理解しよう?)。
思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。(「5.61」)
 話を戻そう。この一節はちょっと省略されている。つまり、どうして「それゆえ」なのかということだ。この隙間を埋めるとしたら、「思考するとは命題のかたちで表現することであり、命題として表現するということが語るということである」というのを挿入したらいい。

 これは(二)で書いていたことである。ここで「思考しえぬこと」といわれているのは「世界のうちにないもの」のことであり、それゆえ、そのものについて「あれは存在しない」と語ることのできなさを主張している。これは序文に書かれていたことと同じ論法になっている。
本書は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してと言うべきだろう。というのも、思考に限界を引くにはわれわれはその限界の両側を思考できねばならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならない)からである。
したがって限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。
 どうしたって、人は思考を思考の内側から眺めるしかない。人は思考を思考の外側から眺めることはできない。僕の理解によると、これこそが「この見解が、独我論はどの程度正しいのかという問いに答える鍵となる」(「5.62」)の「この見解」に相当するものである。
世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。(「5.62」)
 この「世界は私の世界だ!」というのはまさに独我論的主張である。どうしてそうなるのか。世界は言語によって描写され、言語は私の言語としてしか表現しえない、そのとき、私の言語によって表現されるのは私の世界である、ゆえに、世界とは私の世界のことである。

 とまあ、少しごまかしているところもあるけれど、一筆書きでいうとそういうことである。さて、ここまでが、ウィトゲンシュタインの独我論の半分である。世界をその外側から眺めることはできない。じゃあ、ウィトゲンシュタインの独我論のもう半分をみよう。(続く)
# by kourick | 2012-07-14 20:00 | 考察
 すっかり間を開けてしまった。こういうものを多少なりともきちんと読もうと思っているときに勢いを失ってしまうことほど恐ろしいこともないような気がするのだけれど、むしろ逆に、冷静に読めるようになってよかったと思ったほうがいいということもある。なにはともあれ書いてみよう。

 二点、迷った。ひとつは「シンボル」という表現の使い方をちょっと考えてみたほうがいいのかなと思ったこと(「3.31」)。しかし、これは無視する(そしてきっとずっと無視する)。もうひとつは「存在論と言語論の関係にどう決着をつけておこうか」ということである。

 ちょっと手にあまるテーマではあるけれど、『論考』 に沿って、簡単にみてみることにしよう。あらためてそんなことも考えなきゃいけないのかなと思ったのは、「5.552」を読んでいてのことである。岩波文庫の野矢茂樹訳 『論考』 から引用する(ちなみに、ここまでずっと野矢訳)。
論理を理解するためにわれわれが必要とする「経験」は何かがかくかくであるというものではなく、何かがあるというものである。しかしそれはまさにいささかも経験ではない
論理は何かがこのようにあるといういかなる経験よりも前にある。
論理は「いかに」よりも前にあるが、「何が」よりも前ではない。
 太字による強調は、原訳では傍点による強調だけれど、ここではそれを再現することができないので変更した。もちろん、原文でもその部分は強調されている。さて、これはいったいどういうことだろうか。ちなみに似たようなことはけっこう前、「3.221」にも書かれている。
対象に対して私は名を与えることができるだけである。そうして記号は対象の代わりをする。私は対象について〔その性質等を〕語ることはできるが、〔性質を抜きにして〕対象を〔単独で〕言い表すことはできない。命題はただものがいかにあるかを語りうるのみであり、それが何であるかを語ることはできない。
 〔〕で括られている部分は訳者による挿入で原文にはないけれど、そのまま引用した。もっとも、これらの置かれている文脈は少し異なっているので、単純に同じことを言っているわけではないけれど、似た発想、というか、同じ発想のもとで書かれてはいる(当たり前か)。

 これは「3.221」からみたほうがわかりやすそうだ。わたしたちは事実に直面する、それは命題によって描写されることでわたしたちに与えられる。そして、命題を分節化することで「名」は得られる。名は命題の構成要素であるが、命題を分析することによって得られる。

 それは変だと思う人もいるかもしれない。というのも、人は通常、語をさきに学習し、文を作るような気がするからである。たしかに僕も「一語文」は文なのか語なのかみたいなことは気になるけれど、さしあたり、ここでは命題から始めてもそう変じゃないよということだけを言っておきたい。

 たとえば、生物の身体を考えてみてほしい。勝手知ったる人間の身体であれば、その構成要素について、どこが腕でどこが脚でみたいなことはわかっている。だから、腕をもってきて脚をもってきてといった具合に部分から全体を構成できるかもしれない。

 けれどそれが未知の生物だったらどうだろう。それが腕なのか脚なのかという以前に、それが部分なのか、あるいは、それで全体なのかもわからないだろう。それは身体の全体をみて、その構成要素が果たしている役割を分析することによってわかる。

 イカの頭ってどこ?みたいなこともあるだろう。イカには十本の触手があるけれど、いったいどれが腕でどれが脚なのか、それは「腕かもしれない触手」や「脚かもしれない触手」をみたところでわからない。それらの全体から分析するしかないのである。

 目下の事情もこれに似ている。『論考』 における分析の最小単位は命題であり、名というのは命題の構成要素として分析されることによって得られる。もちろん、一度分析されて得られてしまったなら、その名を用いて新たな命題を合成することができる。

 気を付けたいのは、名の寄せ集めが命題なのではなく(「3.141」)、命題がさきに与えられて、それを分節化することで名が得られるということである。名は命題のうちに現れるかぎりにおいて対象を指示する。これは「文脈原理」といったりもする。提案したのはフレーゲである。

 ウィトゲンシュタインがどこまでフレーゲ的な命題の関数論的分析を踏襲しているのかについて、僕はいま確信をもって言うことができないけれど、ここでのミソは、名を一次的なものとして扱わない(対象を直接扱わない)ことによって「イデア的な考察」を避けられるということである。

 たとえば、「テーブルの上にリンゴがある」というときに、その命題はひとつの事実を描写している。この命題から僕は「テーブル」「リンゴ」という名に指示される対象がある仕方で配列しているということを理解し、命題の真偽ないしは事実の成立・不成立を実際に確認する。

 このとき、ある対象の配列、性質の有無がさきにあることが重要だ。それはつまり、命題によって描写される事実がさきということである。もしこれが名がさき、対象がさきということになると、「じゃあ、そもそも 『テーブル』 ってなに?」とか「なにが 『リンゴ』 なの?」ということになる。

 人は名詞をみつけるとそれに対応した対象を探し出そうとしてしまうけれど、それはしばしば無益な探究の始まりになる。「このテーブルもあのテーブルも、同様に 『テーブル』 であるのは、テーブルのイデアを分有しているからだ」みたいな考察が始まってしまう。

 現実の世界の背後に真の世界がある、みたいな話になる。ウィトゲンシュタインはこれを拒否している。日本語だとニュアンスが伝わらないけれど、定冠詞なり不定冠詞なりが付いているというのはことのほか重要だろう。「このテーブルの上にこのリンゴがある」という具合に。

 イデア的な探究は具体的な事物の背後にすら、抽象的なそれらの本質といったものを想定しだす。だが、その手法は誤りだというのである。命題(に描写される事実)から始めるということは、思考たるものをこの現実に踏み止まらせるという働きをする。

 話を戻そう。「わたしたちは対象に名を与える」そして「対象について語る」ことができる。しかし、対象とは命題を分析したときに得られる名に指示されているということによって、わたしたちに与えられるのではなかったか。ここでまた、前回と似た疑問が現れる。

 いったい、名がさきなのか、対象がさきなのか、どちらなのだろう。しかしこれは、そのような疑問に引き寄せられるさらなる疑問によって循環を始める。というのも、仮に名がさきだとしたら、僕たちはいったい「なに」に名を与えたのだろうか。最初に言語がある? まさか。

 だが、名によってはじめて対象が得られるのだとしたら、僕たちはいったい「なに」に名を与えたのだろう。名を与えることで対象は創り出された、そんなことは少なくとも人間にはできない。やはり、語られる、示される、なにか、それは論理の適用に先立ってある。
論理を理解するためにわれわれが必要とする「経験」は何かがかくかくであるというものではなく、何かがあるというものである。しかしそれはまさにいささかも経験ではない
 「5.221」のこの箇所で言われていることは、まさにそのことだろう。論理形式に則った命題は「このようにある」という事実を語る。そして、そのうちにある論理を示す。しかし、そのためには、そもそも論理が適用されるところの「なにか」の存在を前提していなければならない。

 だが、「存在」は論理適用後の世界のなかに現れることによってのみ与えられる。それゆえ、その「なにか」はわたしたちに現前しているには違いないものの、いささかも「存在ではない」ということになる。わたしたちはそれらをいまだ、なんらかの経験としては受け取っていない。

 どうして?という人もいると思うのでいちおう説明すると、それは「存在しないものを経験することはできない」からだろう。このとき、存在の水準が引き上げられていることに注目したい。ウィトゲンシュタインにとって、存在というのは語りうる次元にのみ現れうるものになっている。

 語りうる次元においてのみ存在は対象によって表現され、その次元においてしか経験もありえない。けれど、僕たちにはなにかを語ろうとするときのその「なにか」が必要だ。それはたとえば「実在」とでも言いたくなるものだけれど、それは前提であるがゆえにいまだ「存在」ではない。

 どこか逆説的なものがあるけれど、そうなっている。僕たち(もしかすると僕だけかもしれないが)は「存在」ということで世界の岩盤にぶちあたったような印象を受けがちだけれど、それは本来、「ある」とか「ない」とか語りうる次元、言語の次元に収められなければならない。

 ちなみに、哲学に興味のある人なら、ここでカントの「物自体」を思い出すかもしれない。現象の背後にあると想定される「物体X」である。これの解釈はもちろん、おいそれと僕のような人間のできることではないので立ち入らないけれど、たしかにけっこう似ているところはあると思う。

 ただ、僕の理解だと、それはたとえば、サルトルの著書 『嘔吐』 で、主人公のロカンタンが「マロニエの樹の根」の背後に感じたような未文節の不気味ななにかではない。うにょぼやうにょぼやと蠢いている気持ちのわるい漆黒のなにか(僕のイメージ)といったものではない。

 認識論からちょっと距離を置いているウィトゲンシュタインにしても、それは同様であると僕は思う。むしろ僕が「5.221」で気になるのは、ここで言われている「経験」とは、いったいどのような経験なのだろうかということである。その根源的経験とはいったいどのようなものなのだろう。

 そこには実際、発達や認識にかかわる有意義な研究がありうるように思うのだけれど、『論考』 の枠組みにおける哲学的活動としては、もはや積極的に語るに足りるものではない。ただ、これを「言語的経験」と捉えるなら、『論考』 における根源的経験を考えられるかもしれない。

 つまり、日常生活において、とりたてて意識せずに言語を用いて(しまって)いるという、その経験のことである。日常言語というとややこしいので「言葉」といったほうがニュアンスがあるかもしれないけれど、なにかしらの表現活動のポテンシャルを人はそれぞれもっている。

 ヘレン・ケラーが水と「水」という語の対応に気付いたときに外界を秩序立てて認識し始めたように(といっても、このエピソード自体は映画の創作だった気がするし、幼少期における原体験もあったのかもしれないけれど)、認識と言語というのは表裏一体に貼り付いている。

 そうすると、僕たちが生活しているありのままの世界は、ありのままの言語によって満たされている。僕の感覚・運動器官はさまざまな情報を僕にもたらす。それはいってみたら「僕の環世界」を形作るが、しかし、それは言語にマークされることではじめて「僕の世界」を表現する。

 そして、保有されている有象無象の表現は論理という枝切りバサミによってザックと伐採される。それによって、それらの表現は「世界を描写する言語」に成形されるのである。また、事実を描写する要素命題のみを残して、意味がないとされた表現は世界のうちから放逐される。
いかなる要素命題が存在するのかは、論理の適用によって決まる。
 「5.557」はそういうことだろう。当たり前のことだけれど、僕たちの周りにはさまざまなものがある。僕たちはそのことをして「さまざまなものが存在している」と言いたい。そして、指を指して「これは存在している」と言ったりする(普通はしないと思うが、たまにすることもある)。

 この「言いたかったり」「言ったりする」というのがことのほか重要で、まさにそうするときに「存在」は世界のうちに現れる。トートロジカルな言い回しになってしまうけれど、なにかについて、それが「ある」とか「ない」とか存在を語るときにこそ、存在は世界のうちに現れうる。

 その「なにか」はある。けれど、それは「存在」としては世界のうちに現れていない。こういうことになっている。気持ちとしては、その「なにか」のほうを「真の存在」とか思ってしまいそうだが、それは言語のレイヤを通さないと語れないし、語れないものは存在とは言えない。

 そして、もし、その「なにか」について語ったのなら、それはもう言語の次元における存在として世界のうちに現れてきており、その存在も問題にできる。というわけで、「真の存在」は存在しえない。さきほど「存在の水準が引き上がっている」と言ったのはこういうことである。

 論理の適用をまって、要素命題とそれによって描写される事実は世界のうちに現れる。その存在が与えられる。だがそれは、それがたしかに要素命題であると論理的な根拠から知られるまえから、きっと要素命題だろうと気付かれているものではあったのだ。
要素命題が存在するはずであることが純粋に論理的な根拠から知られるのであれば、分析されていない形式で命題を理解している誰にでも、知られるのでなければならない。
 「5.5562」で言われているのはそういうことだろう。こうやってつらつらとみていると、『論考』 の言語というのは日常言語によって相対化されているんじゃないかとも思えてくるのだけれど、この直後、独我論がふわっと現れる。次回こそは、それを考えてみよう。

 いちおう冒頭のテーマに戻ると、『論考』 は存在論があって認識論があって言語論があって解釈論があってみたいな層分けにはなっていない。言語論がすべてに先行するというわけではないものの、あらゆる問題は語りうる領域に収まるか、さもなくば沈黙という二択を迫られる。

 そういういみでは、言語論が最優先とはいえるかもしれない。語りうるかどうかというフィルタが一番上にあって、本当にまともに語れているのかという厳密なチェックが入る。逆に言うと、そこがボトルネックになっていて、本当に語りたいところのものこそ語れない。禁欲的なのだ。

 さて、前回、次がラストだと書いたけれど、残念ながらラストではなかった。だが、次こそはラストである。「これは論理実証主義者の通った道ですか?」とか「この道まじ迷子」とかうにょうにょしながら読んでいる。面白いかと問われると、決してそんなことはないと断言できる。(続く)
# by kourick | 2012-06-27 20:00 | 考察
 そろそろ綱渡りもおしまいにしたい。途中、ほつれていたり切れていたりしているかもしれないけれど、できるだけの一本道をとてとてと歩いてきた。まあ、もしかすると僕はもう空中を歩いているのかもしれないが、気付かないうちに渡りきれるのなら、それに越したことはないだろう。

 なにはともあれ、まずは前回の冒頭に書かれた疑問に僕なりに応じないといけないだろう。『論考』 において「どうして命題は理解できる」のだろうか。これは昨今の学者の知見も参照しようとするなら、けっこう大変な道のりになる(だろう、たぶん。やってみないとわからないが)。

 あるいは、外言が内面化する過程において、その言語がどのような機能を果たすようになるかというような、発達に関するアレクサンドル・ルリアの興味深い研究にまで視野を広げようとするなら、これはもう、いったいどんな地面に立っているのかわからなくなりそうだ。

 けれど、実際のところ、それらは動きのある言語観における問題設定(個別の言語はどのように理解されるのかとか、コミュニケーションはどのように成立しうるのかとか、言語は発達とどのようにかかわるのかとか)で、『論考』 の著者の言語観に則るなら、あまり気にしないでいい。

 というのも、この時期のウィトゲンシュタインの言語に動きはないからである。それは、ある時点において成立していることがらを語る言語、あるいは、どの時点であっても成立することがらを示す言語であって、いわゆる「語用論」といわれるような領域には踏み込まない。

 『論考』 の世界に変化はない。ウィトゲンシュタインだったら、きっと、次のように言うだろう。「世界のなかに変化はない。もし、変化といわれるものがあるとするなら、それは世界そのものが変化するのである」とかなんとか。それもまた示されるほかないものに違いない。

 しかし、どうしてだろう。どうして、これほどまでに 『論考』 の世界と言語(そして論理)は動かないのだろう。僕は漠然と、それは「1」から「2.063」までで決まってしまったことなのだと思っているけれど(とりわけ「2.063」は強力だ)、いまいち、はっきりとした考えはまとまっていない。

 もしどこかを改変してみることで 『論考』 が動き出すなら、それはとても面白いことだと思うのだけれど、まあ、たぶん無理だろう。少なくとも、いまの僕には無理だ。そしてまた、『論考』 というのはあまりにも緊密に編み込まれているので、いつまでたっても無理じゃないかとも思う。

 なににせよ、言語を用いて行為するとか、コミュニケーションするとかいったことは、『論考』 の世界のなかでは起こらない。『論考』 の言語はあくまで事実としての世界を記述するものであって、言語を用いて行為するというのは、言ってみれば、世界の外側にあることがらになる。

 それはまた、『論考』 の世界のなかに、そのような活動をする主体は存在しないということを示す。世界は言語によって描写され、言語は世界の像である。絵に描かれた人物が思考していないように、言語によって描写された人物も思考していない。

 「5.541」からの命題的態度の解決などは、その直接的な帰結である。ウィトゲンシュタインはここのところバッサリしている。これは実際、かなり厳しいラインを全速力で駆け抜けているのだけれど、『論考』 をここまで読んできた人にとっては「仕方ない、か?」と思わされるところである。
「Aはpと信じている」「Aはpと考える」「Aはpと語る」は、もとをたどれば「「p」はpと語る」という形式となる。(「5.542」)
 これは正直、わけわからんと思う人が多いと思う。そして、これは解釈の余地があるところで、人によって言っていることが異なるのだけれど、ここまでの流れでいうと、僕はこう言わなければならないだろう。言語と世界の対応関係にとって、人がどう思っているかは関係ない。

 人がどのようなことを信じているか、考えているかというのは、命題のかたちで表現されてはじめて世界のなかに現れるのであって、そうじゃない信念や思考といったものはありえない。もしそれが命題として表現されているのなら、その命題が事実どうであるかを語るのである。

 ウィトゲンシュタインは信念を対象化しないし、思考にしたって、それが命題として表現されたものしか扱わない。人がそれを信じているなどというのは、それがなにかしらの内的な状態を表しているかぎりは世界のうちに現れておらず、語りえないことである。

 たとえば、晴れているときに「雨が降っている」と言ったら、それは偽であるけれど、「僕は雨が降っていると思っている」は僕がそう思っていたら真である。これはおかしいという話なのだけれど、僕がそう思っているだけのことがらは世界のうちに現れていないので、考慮に値しない。

 もし、僕が雨が降っていると思っていて、それを「雨が降っている」と命題のかたちで表現したなら、そのときはじめて僕の信念は世界のうちに現れる。そしてその信念は誤っているのである。なぜなら、実際には、晴れているからである。なにもおかしなところはない。

 そして、そのような世界であるとするなら、「理解」に関して、ふたつわかることがある。ひとつは、「理解」や「思考」といった「活動」は世界のなかにはないということ、もうひとつは、ウィトゲンシュタインの世界において「理解」は「思考」と一致するということである。

 「思考」という活動は世界のなかにはない、そしてそれは「思考主体」は世界のなかにいないということも含意する。それはただ、なにかしらの表現を通して「思考された」ということによってのみ、事実として世界のなかに現れる。そして、その事実のみが思考という活動を示すのだ。

 『論考』 の世界において、「思考する」や「理解する」といったような活動は現れない。ただただ、「思考されたこと」や「理解されたこと」が命題というかたちをとって現れるだけである。そして、そのようにして現れたものだけが、「思考する」や「理解する」といった活動を示してくれる。

 「理解」もまた「理解されたこと」としてしか世界のうちには現れない。さて、ここにいたって、冒頭に掲げられていた疑問は奇妙な仕方で解かれてしまっている。いや、むしろ、その疑問は最初から疑問として成立していなかったのだと言ったほうがよいのかもしれない。

 「思考」は「知覚可能な有意味な命題」として世界のなかに現れるのだった。このとき、その「命題を理解する」には「事実どうであるか」を知らないといけない。けれど、「事実どうであるか」を知るためには「命題を理解する」必要がある。じゃあ、どうやって命題は理解されるのか。

 『論考』 の入口はどこにあるのか、これが疑問なのだった。しかし、これはナンセンスなのだ。なぜかというと、そもそも 『論考』 のなかには理解されたことしかありえないからである。なにを意味しているのかわからない命題というのは、『論考』 の世界のなかには現れない。

 要するに、「どうして命題は理解できるのか」という問いには、「理解できていることを表現しているものだけが命題なのだ」という答えが与えられる。言ってみれば、「思考」と「理解」は同時に与えられ、「言語」と「世界」は同時に与えられる。『論考』 に入口はない。

 しかし、その命題という事実の成立において、「理解されたものは、どのようにして理解されたのか」という問いは、まだ問いうるものだろう。それには、結局のところ、いたって単純な答えが与えられる。理解は「記号を用いた表現活動を通して与えられる」のである。

 つまりは日常言語のおかげだ。ただ、日常言語として使っている記号がきちんと世界を描写しているかとなるとそれは別問題であり、ウィトゲンシュタインにとってはそれこそが問題だったのだ。いわば、『論考』 は、日常言語が言語であるための条件を提示しようとする。

 ウィトゲンシュタインにとって、哲学とは学説ではなく、活動である(「4.112」)。それはどのような活動かというと、命題を明晰にする活動、言語批判である(「4.0031」)。有象無象の表現から、それがきちんと世界を描写する言語(自然科学の命題)なのかどうかを解明する活動だ。

 前回までのエントリでほとんど書いてしまっているようなものだけれど、日常言語は(それがはたして 『論考』 において示されるような意味合いにおいて、どれだけ「言語」としての資格を有した記号なのかは怪しいものの)「現に使える」ということは、やはり 『論考』 の前提としてある。

 そもそも、そうでなければ、この書物自体が読めない。とまあ、それは冗談としても、『論考』 の目的は「語りうることは明晰に語り、語りえないことはそれが語りえないことを示す」ことである。有象無象の表現はもちろんはなからあるのであり、それはたとえば日常言語なのである。

 さながら、身体の発達と同じようにして、言語もまた発達する。だからこそ、「日常言語は人間という有機体の一部」なのだろう(「4.002」)。身体の動かし方を知らなくとも身体を動かすことができるようになるように、言語もまた、その使い方を知らなくとも使えるようになる。

 人は通常、1~1.5歳頃に「パパ」「ママ」のような一語文が初語として現れ、1.5~2歳頃になると「私のほにゃらら」のような二語文を使えるようになる。これはちょうど、マークテスト(鏡像認知)を通過するあたりと重なり、「自我」と「主語」の芽生えが同時期なのは興味深いことだ。

 これはまた、言語とは異なった射影方法によって事実の像となりうる絵画でも同様だろう。もっとも、僕は絵が下手なので、それに関して個人的には自信がないけれど、きっと同じ事情にあるだろう。まあ、それにしては遠近法の発見は遅かったよね、という感想はあるかもしれない。

 これはなかなか面白いところで、普通に発達しただけでは「ありのままの世界」を描いているように思われる遠近法的描写はできるようにならない。遠近法を用いた射影方法(これはまさに射影といえる)は、それなりきのトレーニングを受けないと使えるようにならない。

 実際、遠近法(どの手法にせよ)は、かなり作為的に平面上に奥行きを再現するものであり、描かれたものは「見たままの光景」として感じられるものの、描いているときは、一度、そこにある光景を遠近法的に捉え直してから平面上で再構成するという不自然な過程を踏むことになる。

 これは興味深いところで、『論考』 ともまったくの無関係とも思えないわけだけれど、ちょっと違うラインに移らないといけないので、話を戻すことにしよう。さて、こうして僕は、そろそろ、やっとこさ、紛いなりにも 『論考』 の独我論を話せるところにまできたのではないかと思っている。

 というわけで、次回、ラストである。と、書いておきつつなんだけれど、僕はいま 『論考』 の「5.552」「5.5521」と「5.557」「5.5571」をどう読まないといけないことになるのかに悩んでいる。「悩む」という状態の発生が僕の無計画と無理解を暴露しているが、まあ、どうにかしたい。(続く)
# by kourick | 2012-06-12 00:00 | 考察
 さて、じゃあ、『論考』 において「どうして命題は理解できるのか」ということを考えてみたいと思う。といっても、実のところ、これは「理解できるから」というだけで、もしかするとあまり考えるようなことでもないかもしれない。けれど、そこはそれ、今回はちょっと考えてみたい。

 思考の種になりそうなのは「3」代とか、「5.55」代とかだけれど、その前に、ウィトゲンシュタインの言語と日常言語はどのような関係にあるのかを見ておこう。前回も書いた通り、『論考』 の言語というのは論理的に完全なものが想定されている。

 ただ、その一方で、こうも書かれている。「われわれの日常言語のすべての命題は、実際、そのあるがままで、論理的に完全に秩序づけられている」(「5.5563」)。じゃあ、日常言語だけでいいじゃないか、それで論理的な分析もしたらいい、と思うところかもしれない。

 実際、のちにそれを試みる人たちも現れるわけだけれど、この時期のウィトゲンシュタインはそうした方法にはかなり否定的だった。いわく、「日常言語から言語の論理を直接に読みとることは人間には不可能である」(「4.002」)。どうしてだろうか。

 端的に言ってしまうと、日常言語は「あまりにも複雑」だからである。そしてまた、それがもともと「論理を示すためだけに作られているわけではない」からである。実際、日常言語というのはいろいろな使い方ができ、その使い方を楽しむだけでも人の興味を惹くものだ。

 たとえば、「テーブルの上にリンゴがある」と言う場合を考えてみよう。いま食べたばかりなのに、なぜかテーブルの上にリンゴがあった。おいおい、タイムふろしき、いや、グルメテーブルかけの仕業か? ふと驚いて、そんなことを呟いてしまっても不思議ではない。

 もっとも、日本語を話す日本人なら「の上(に)」などという前置詞は使わない場合が多いかもしれない。「テーブルにリンゴがある」のほうが自然に感じるものだ(個人差はあると思うけれど)。そう、「戸棚にお菓子があるから食べちゃいなさい」という謎の定型句もあった。

 お菓子の典型的な在り処とは「戸棚」である。そして、それは「饅頭」か「串団子」と決まっている。いや、それはさておき、「テーブルの上にリンゴがある」である。テーブルの上にリンゴがあるとき、人は「テーブルの上にリンゴがある」とか言ってみるものだ。事実の描写である。

 しかし、必ずしもそうある必要はない。夏休み、突き抜けるように紺碧な日差しのなか、家族と一緒に神威岬を散策しにいった少年が、なんとかその突端に辿り着き、地平線の上にある太陽を見て、付き添いのおじいちゃんに「テーブルの上にリンゴがあるよ」と言ってみる。

 そんなこともあるかもしれない。大人も大人で、「そうだね」とか言うのである。「神様もお腹が減るから、リンゴ食べちゃうんだよね。だから、夜になっちゃうんだよ」「そうなの?」「そうだよ。だって、夜にはお皿しか残っていないでしょう?」とかファンタジるかもしれない。

 こうしたやり取りに「やはり子供の感性は素晴らしい」と思い、うちの子には詩的な才能があるのかもと期待に胸を膨らませるか、「ああ、言葉を奇妙に把握しているし、妄想も激しい」と思い、うちの子は言語理解に難があるのかもと不安に頭を悩ませるかは難しいところだ。

 言語の誤用に「子供の素朴さ」や「感性の素晴らしさ」をみとって感激するのは大人の専売特許といえるだろう。ただ、この場合、「誤用」とはいっても、言語の詩的使用という観点からは、むしろその子は正しいのかもしれない(詩的なものに正しさを求めるのもどうかと思うが)。

 まあ、いまのは何気ない僕の創作だけれど、実際、それほど違和感を覚えなかったのではないかと思う。人は事実を描写するような言語使用を「正しい」と感じ、それゆえに、ある種の詩のように語のイメージや雰囲気を用いた描写を「本来的には誤り」と感じがちだ。

 しかし、なににせよ、そういう使い方もできる(そう、どういうわけかできてしまい、さらに僕たちはそれによって、実際、なにごとかをわかったりもする。が、それはまた別のお話)。上記の場合も、事実の描写にはなっていないだろうけれど、それはそれで面白い言語の使い方だろう。

 ただ、そうした使用法すら許容する日常言語は、厳密に論理的な分析をすることにはまったく向いていない。そうした遊びがナンセンスを生み、誤解を生む。ウィトゲンシュタインは論理的な分析のためには日常言語の贅肉を落とし、論理的な精度を高める必要があると考えた。

 言語に関して「正しさ」を問うというのは、なにを問うているかというと、その「論理的な正しさ」を問うているのだということである。それ以外に、言語のどんな性格について「正しさ」を問いうるだろうか。言語使用はさまざまだが、こと、その正しさということだと、その論理が問われる。

 まあ、これはちょっと(というかけっこう?)僕の読みも入っているけれど、このような目的意識は、フレーゲがその著作 『概念記法』 の序文に書いた、「顕微鏡と眼の比喩」を思い出させる。少し長いかもしれないけれど、引用しておこう。
 概念記法の生活言語(Sprache des Lebens)に対する関係は、それを顕微鏡の眼に対する関係に譬えてみると、もっとも分かりやすくなると思う。眼は、その適用可能な範囲やまったく異なる状況にも適応できる柔軟性の点で、顕微鏡よりはるかに優れている。もちろん、光学機器としてみるなら、眼には多くの欠陥がある。そして、それらの欠陥にわれわれがふだん気がつかないのは、眼が精神生活と内的に結びついているからにすぎない。しかし、科学の目的が分解の厳密さを強く要求するやいなや、眼は不十分なことが明らかになる。これに対し、顕微鏡は、このような目的に完璧に適合しているのであるが、まさにそのゆえに他のすべての目的に対しては役に立たないのである。
 同じように、この概念記法は、一つの特定の科学的目的のために考案された補助手段なのであり、他の目的に対して何の役にも立たないからといって、それを非難してはならない。
 ここで「概念記法」と言われているのは、とりあえず、「記号言語」と考えてもらっていい。そのほかのことは書かれているとおりのことなので、特に説明はいらないだろう。適応力・柔軟性の点で生活言語は優れているが、論理的分析をするには多義的で曖昧なところも多い。

 他方、記号言語は論理的分析を行なうのには適しているが、それがために日常的な生活には役立たない。フレーゲの概念記法は当初「日本語のように分かりづらい」と評されたほどユニークだけれど、その表記法だとルイス・キャロルのパラドクスを生じないなど利点もある。

 それはさておき、『論考』 の言語に話を戻そう。ウィトゲンシュタインも明晰に思考し、明確に表現し、論理的に推論するための言語というものを考えている。ただ、その表し方、あるいは示し方にウィトゲンシュタインはラッセルやフレーゲよりもはるかに禁欲的な態度をとっている。

 ウィトゲンシュタインは論理的に完全な言語を要請しつつも、どうも日常言語のほかに論理的に完全な言語があるとは考えていない。むしろ、「われわれの日常言語のすべての命題は、実際、そのあるがままで、論理的に完全に秩序づけられている」とまで言うのである。

 これはどういうことだろう。ウィトゲンシュタインのいう世界は(定冠詞付きなことからもわかるように)唯一の世界であり、それに対応する言語も唯一の言語である。そして、このことは、その対応関係を保証している論理というものも唯一の論理であることを示唆している。

 ということは、日常言語が論理的に完全に秩序づけられているとき、そのほかに考案された記号言語も論理的に完全であるとするためには、それら両方の言語の扱う領域(ないしは限界)が一致しているということが求められるだろう。これは当然のなりゆきである。

 そして、日常言語の論理的な瑕疵を指摘しつつも、なお、日常言語は論理的に完全に秩序づけられているという指摘を素直に受け取るのなら、ウィトゲンシュタインの想定している論理的に完全な言語とは、日常言語の背景に埋め込まさっているのだと考えるのが自然だろう。
思考は言語で偽装する。すなわち、衣装をまとった外形から、内にある思考の形を推測することはできない。なぜなら、その衣装の外形は、身体の形を知らしめるのとはまったく異なる目的で作られているからである。(「4.002」)
 このように「衣装と身体の比喩」で言われているのは、そういうことである(もちろん、具体的には、ラッセルの記述理論のことなどが念頭に置かれているのだとは思う)。そもそも、そうでないなら「思考は言語で偽装する」などという表現からしておかしいのだ。

 なぜなら、それは「言語は言語で偽装する」と言っているのと等しいからである。前者の「言語」は論理的な言語(記号言語)、後者の「言語」はいまいち論理的とは言い切れない言語(日常言語)のことだろう。それゆえ、厚着した言語を丸裸にするのが哲学の役割なのだ(「4.112」)。

 日常言語は本来、論理的に完全に秩序づけられているのだけれど、しかし、論理的な目的に資するためには余分なところが多すぎる。世界のうちに指示対象をもたないような語を含んでいるし、曖昧で多義的な表現でかなり水増しされてしまっている。これがいけない。

 ありのままの言語、そして、ありのままの世界から、そこに内在する論理的に完全な言語、そして、論理的に完全な世界を、記号言語を用いて示そう(その助けを借りて読みとろう)、どうやら、ウィトゲンシュタインのモチベーションの片面とはこのようなものであったと思われる。

 そしてこのことは、論理的に完全な言語というものを直接的に提示することはできないという主張も含んでいる。これは幾何学を例にとるとわかりやすいだろう。僕たちは「これこそが正真正銘の三角形です」というようなものは提示することができない。

 それはどうしたって、個別の具体的な三角形になる。ただ、その三角形の特定の性質を捨象して、その三角形が三角形であるというかぎりにおいて考察するなら、その三角形を通して得られた帰結は、任意の三角形一般について当てはまるものである。

 僕たちは個別の三角形について語ることしかできないけれど、それを通して、任意の三角形一般で成立することを示している。ウィトゲンシュタインが論理について考えていたことも、そういうことだろう。純粋に論理的な命題は語りえず、個別の命題によって示されるほかない。

 さて、そのようなわけでウィトゲンシュタインの言語と日常言語の関係はだいたいわかったのではないかと思う。ウィトゲンシュタインのいう「言語」は日常言語とまるっきり別のものというわけでもない。それは言ってみれば、日常言語という衣装を纏って現れる。

 ただ、ひとつ注意したいのは、典型的なプラトニズム的な解説をしておきながらなんだけれど、どうもウィトゲンシュタインは論理についてのプラトニズムには与していないということである。これはとても重要なところなのだけれど、今回はそっとしておきたいと思う。

 というわけで、続きは次回にしたいと思う。それにしても、まさかこんなマラソンになるとは思っていなかったので、正直、僕はちょっとだれてきている。これを読んでいる人もそうだろう、もう少しだけお付き合いいただけたらと思う。いまのところ、いちおう完走する気はあります。(続く)
# by kourick | 2012-06-04 21:00 | 考察