午後11時12分、執務室のドアはノックされた。
「どうぞ」
応接用のソファに座っていた梅永はふかしていた葉巻を左手に持ち替えながら応じた。天井の照明は消されており、ソファの脇に置かれた蓄電式のスタンドライトだけがぼんやりと部屋をオレンジ色に染めていた。
「失礼します」
落ち着き払った声とともに長身の男が一人、部屋に入る。
「遅くなりました」
秘書の竹成はドアを閉めると知事に会釈した。朝から動きまわっていたはずなのだが、スーツや頭髪に乱れはなく、疲れをうかがわせない。ほっそりしている見かけとは裏腹にタフさを感じさせた。その身なりと言動から「固い」と評されることの多い竹成だったが、梅永はむしろ「飄々としている」と思うことが多かった。いずれにせよ、使える男ではある。
「いや、こちらから頼んでいたことだからね」
梅永は葉巻を右手に持ち替え、左手で竹成にソファを勧めた。
「まあ、正直、少々、待ちくたびれてはいたことは否定できないが」
梅永がおどけた調子で言うと、
「申し訳ありませんでした」
竹成は梅永の言葉尻を食い気味に言った。コートハンガーに上着とマフラー、そしてヘルメットをかけると、竹成はソファに歩み寄る。
「外は寒かったろう」
場を和ませるために梅永は当たり前のことを訊いた。
「ふぶいていたので地下搬送路を使わせていただきました」
この場合の地下搬送路というのは、地下鉄網や民生の地下通路ではなく、重要施設間を地下で結んでいる特別経路だ。物資の搬送のほか、要人の避難、及び、緊急時のバンカーとしても使われる。
「地下だって寒い」
「はい、なので、搬送車を一台借り、ここまで乗ってきました」
竹成はしれっと言う。
「君もなかなか大胆なことをするね」
梅永は笑った。
「お待たせしてはいけないと思いまして」
竹成はソファに腰かけ、黒革のブリーフケースを足許に置いた。直線的なデザインの眼鏡のレンズがときおり白い光を反射する。竹成の眼鏡が汚れているのを梅永は見たことがない。
無駄のない所作で話す準備を整える無表情の竹成を見ながら、「まったく固い男だな」と梅永は思った。
「暗いですね」
竹成がスタンドライトに視線をやる。
「必要かい?」
梅永は天井を指差しながら言う。別に電源が落ちているわけではなく、スタンドライトを使用しているのは梅永の趣味だといえた。節電にもなる。
「いえ、十分です」
竹成は言う。そして、ブリーフケースからダブルクリップでまとめられた紙束を3冊取り出し、テーブルの上に置いた。
「提出される資料はすべてコピーしてきたので、明日にでも目を通してください。言うまでもありませんが、取り扱いは慎重にお願いいたします」
「もちろん」
梅永は頷いた。提出される資料とは、今夕、北方観測隊が持ち帰ったものだ。おそらく環境省を経由して、明日には首相のデスクに置かれるだろう。その資料を竹成に入手してもらっていたのだ。どのような手段を使ったのかはわからないが、市ヶ谷に入る前にデータの受け渡しがあったのではないかと梅永は推測する。
「また、数名の隊員から話を訊いてきました」
「それは御苦労だったね」
梅永は「それで遅かったのか」と思う。
「明日以降ですと情報に欠落が生じる可能性がありますから」
「なかなか良い表現だ」
梅永はにやりと笑う。
竹成が続けて話をしようとしたので、梅永はそれを片手で制した。
「なにか飲まないか」
梅永はふかしていた葉巻を灰皿で潰し、立ち上がりながら言う。
「なにかといっても、水かバーボンかバーボンの水割りの三択しかないが」
梅永は竹成にちらと視線をやって肩を竦めた。竹成は「正確には水のバーボン割りを含めた四択だな」と頭の片隅で思ったが、口には出さなかった。当たり前である。
「ここで、ですか?」
竹成は周囲を見回して「いかがなものか」というジェスチャをする。冷静になって考えると現在のこの部屋ほどアルコールを飲むのに適した環境はないような気もしたが、紛いなりにも「執務室」と名の付けられた部屋でアルコールを摂取することには抵抗があった。もっともな反応だろう。
「強要はしないよ。別の場所に移ってもいいが、いまとなってはあまり意味のない行為だと私は思うね」
梅永はデスクの下からバーボンの瓶とグラスを取り出した。
「これからここに人がいらっしゃる予定は?」
「夜の11時に? わたしは健全な知事だよ」
梅永はグラスにバーボンを注ぐ。
健全な知事は執務室で酒を飲んだりはしない。
「明日のご予定は?」
「それは重要な質問だ」
梅永はグラスを持ち上げながら、竹成を見た。
「飲みながら話そう」
一口飲む。
「じゃあ、ストレートでお願いします」
竹成は笑みを浮かべて言った。
「いけるじゃないか」
梅永は嬉しくなる。
「氷はないが、ミストにしたかったらいまのうちにそとから雪玉を持ってきたらいい」
子どもみたいにうきうきした口調だった。
竹成は「雪は汚いだろう」と思ったが、もちろん、口には出さなかった。
「4センチくらいでいいかな。だいたい、半分だ」
梅永はグラスにアルコールを注ぎながら言う。
「4センチ?」
竹成は量を長さで示されたので驚いた。
「重さでいったほうがいいかな? 私が若いころはシングルのことをワンフィンガーといったが、指の太さは人それぞれだし、どの指を使うかでも異なる。バーテンダーが赤ん坊だったら絶望的だ」
「シングルは1オンスです」
竹成が指摘する。
「オンスという単位がそもそもわからないじゃないか、日本人には馴染みがない。アメリカ人とイギリス人以外はきっと、みんなそう言う」
梅永が楽しそうに言い返した。
「1オンスは約30ミリリットルですね」
「君は30ミリリットルの酒を想像できるかい。どういう器に想像する? 私は若いころにシングルのロックを頼んで、その少なさに驚いたものだよ。馬鹿にしているのかと思って続けざまに飲み干し、そして、悪酔いした。私には多かったんだ。物事を見た目で判断してはいけないということを、私は人間よりもさきに酒から学んだね」
梅永はグラスを持ち上げて、竹成に見せた。
「このグラス」
「オールド・ファッションドですね」
竹成は答える。
「まあ、ちょっとした柄は付いているが、国内では標準的な単なる8オンス・タンブラーだよ。その名の通り、だいたい240ミリリットルの容積がある。4センチだとだいたい半分、つまり、120ミリリットルだ」
梅永は言いながら、両手にグラスを持ってソファに戻った。
「君、体重は70キロくらいだろう? 身長は180センチくらいかな」
「ええ、だいたい、そのくらいです」
竹成は頷く。
梅永はソファに座ると、グラスをテーブルに置いた。
「ということは、君が平均的な酒の飲める日本人だと仮定して、1時間あたりに7グラムかもうちょっとのアルコールを分解する能力を有していることになる。もっとも、モンゴロイドは統計上、約50パーセントは下戸なんだが」
梅永は竹成の前にグラスを進めた。
「そのバーボンは50度だから、概算して60グラムはアルコールだと思っていい。君がそれを飲み干したとして、分解し終わるのは約9時間後だ」
梅永は自分のグラスに口を付ける。
「いただきます」
竹成もグラスを手に取り、一口飲む。こういった計算は自分もよくするところのものだったが、梅永の語り口は手品の種明かしを聞いているように興味深いものだった。酒が手品だとしたら、アルコールはその仕掛けに値するだろう。トロイの木馬のようなものである。
「要するに、だ」
梅永はじっと竹成を見据えた。
「急にですまないが、君には明朝10時、北海道に行ってもらいたい」
「了解しました」
竹成は梅永の視線の重圧を逸らすように簡単に首肯した。
途中から、こういった展開になるような気はしていた。
慣れっこなのだ。
「ハシシュの件ですか」
「それもある」
近年、雪下都市では出所不明の大麻が横行しだしており、それに伴う風紀の乱れが問題視され、治安の悪化も懸念されていた。最初は個人による栽培だろうと都市内部の調査が進められていたが、次第に外部からのものであることがわかり、特設警備による内偵が進められていた。企業都市群からの搬送物を臨検しても結果は出なかったので、梅永は自衛隊の関与まで疑っていた。
「松来と会ったんですね? 彼には待っているように言ったんですが」
松来とは北方観測隊に従軍していた都職員だ。竹成が47歳なのに対し、松来は37歳で一回りほどの歳の差しかなかったが、竹成は初めて松来に会ったとき、リクルート中の学生と間違った。竹成が老成しているということもあったが、松来は年を経ても溌剌とした若さを維持していた。
「そそくさと帰ったよ。彼は面白いね」
「変わった男です」
竹成は眉を顰めながら言う。
「ただ、見てきてほしいのは、それだけじゃない」
梅永はグラスを持つ右手の人差し指を立てた。
「さきにルートを教えてもらっていいですか」
竹成はすでに具体的な行程と手段を検討し始めていた。
「まず、旭川に入ってほしい。そこから稚内に行き、旭川に戻ったあと、帯広、根室は見てきてもらいたいね。期間は君に任せるが、一ヶ月はかかりすぎだ」
「はい」
「表向きの名目は自然エネルギー資源の活用方法の視察にしてある。実際、それはそれで気になる情報だ。予定外の動きをことさら隠す必要はないが、その分、十分な警護体制はとれないだろうから身の安全には気を付けるように」
「わかりました」
たしかに、身内も疑いながらの視察ということになると、ちょっと危ない橋を渡らなければならない場面は想定しうる。直接的な危害は加えられなかったとしても、移動の際にほんのちょっと燃料や食料が「不足」しただけで「遭難」しかねない。
「それと、マツライ君によるとオロロンラインの風車群の一部、特に北部のものが凍結し始めているそうだ」
松来は「マツキ」と読むが、松木という職員がほかにいたので、梅永は松来のことを「マツライ」と呼んでいた。
「風力ベースの町から難民が発生する可能性がある」
「ええ、そうですね」
竹成もそのことは知っていた。
「第2師団も地上難民の武装化を警戒しているようです」
「あのあたりはもともとロシアや半島からの難民が多いからな」
梅永は苦笑して言う。
「ただ、武装化もさることながら、その武装がどこからやってくるのかが問題だ。君にはハシシュやハードドラッグのこともだが、そういった一連の北方の動きについても情報をまとめてきてもらいたい」
竹成は黙って頷いた。
「はっきりいうと、ドラッグよりも、それを捌ける集団の組織、その規模、目的、ネットワーク、流通経路、そして、今後の展開が問題だ。他愛のない集団ならいいが、まかり間違って、もしいま東京に武器でも持ち込まれたらひとたまりもないからね」
梅永はバーボンを飲み干し、ソファから立ち上がる。
「むろん、防衛省や他の職員にも働いてもらっているが、私は確度の高い情報と信頼できる分析が独自に欲しい。自衛隊の嵯峨さんには話を通してあるから、なにかあったら便宜を図ってもらうといい。期待している」
「心得ました」
竹成は再三、頷いた。
「さて、事務的な連絡も終わったところで、私はもう一杯もらおう」
梅永はグラスにバーボンを注いだ。
竹成は「事務連絡ではないな」と思ったが、口には出さなかった。
「そろそろ君の話を聞きたいね」
「はあ」
話すべきことは複数あったはずだが、竹成は明日以降の計画に気を取られていた。なんとなしに間の抜けた返事をしたことに竹成は「しまった」と思うが、頭のなかのホワイトボードに覆いを被せることにも手間取ってしまう。少し酔いがまわってきたのかもしれない。竹成はブリーフケースから手帳を取り出そうとする。
「ああ、そうだ」
梅永が楽しいことを思い出したみたいに声を上げた。
竹成は嫌な予感がした。
梅永と関わって、こういうときにろくなことが起きたためしがない。
「酒のツマミがなかったね、ちょうどいいのがあるんだ」
そう言って、梅永はデスクから白い皿を持ってソファに戻ってくる。梅永のグラスには竹成のグラスに残っているのとほぼ同量のバーボンが注がれていた。梅永はテーブルの上に皿を置くと「まあ、食べなさい」と言った。皿の上には緑色のブロックとスナックが乗っていた。
「こちらはクロレラブロックですね。わたしも以前、試供にもらったことがあります」
竹成は緑のブロックを指差しながら言った。
「へえ、そんなことがあったのか。私は知らなかった」
梅永は少し驚いた。食糧の検討は竹成ともしていたが、こういったものがあることは聞いていなかった。
「ただ、そのときにもらったものとは多少、違うようですね」
「いくつかのフレーバーがあるそうだ」
「どうされたんですか、これは?」
「ああ、マツライ君からもらったんだよ」
梅永は緑色のスナックをひとかけら口に運ぶ。
「君も食べてみたらどうだい」
梅永に促されて、竹成はスナックを食べる。
「やや青臭いものの塩味が効いていますね」
「これはまだ試作段階の貴重品だそうだ」
梅永は手に取ったスナックをしげしげと眺めると皿に戻した。
「クロレラも検討しているんですか?」
竹成は訊いた。もちろん「食糧として」ということだ。
「あ、それ、クロレラじゃないよ」
梅永は笑いを噛み殺しながら言う。
「え? 違うんですか」
竹成はもう一度スナックを口に運び、よく味わう。
ブロックと同様に、スナックも当然、クロレラだと思っていた。
「それはね、ユーグレナだよ、ユーグレナ、知らない?」
「知りませんね」
竹成は右に5度、首を傾げる。
「ミドリムシ」
梅永はにたりとした笑みを浮かべた。
竹成は食べていたスナックを吹き出し、咳き込んだ。
「君ぃ、それが食べられないようじゃ、これからの時代、生きていけないぞ」
梅永は竹成の様子を見ながら、グラスに口を付けた。
「なんといっても、森の女神が作ったらしいからな」
「なんですって?」
竹成はむせながら訊き返した。
非現実的な発言だ。立場的には危険と言ってもいい。
梅永の発言の意図を把握しておく必要性を竹成は感じた。
「マツライ君によると実在するらしい」
梅永はおどけた口調で言う。
「森の女神が、ですか?」
竹成はグラスに残っていたバーボンを一気に飲み干す。
「そう。森といっても、地名の森だが」
どうやら冗談を言っていることはわかった。
「北海道の人間なら、誰でも知っているそうだ」
まさか。竹成は半信半疑だった。冗談なのはわかったとしても、それほど北海道の人間に慕われている人物であれば、自分の耳に入らないわけがない。竹成は少なからず自分の情報網に自信を持っていたが、少なくとも「森の女神」について竹成の人脈から漏れ伝わってくるものはなかった。あまり信憑性も重要性もあるような情報ではないのだろうが、しかし、なんとも松来らしい情報だと竹成は思った。おそらく、情報に対するアプローチに差があるのだ。
「気になるようなら寄ってきたらどうだい」
梅永は言う。
「森ですか、たしか地熱ベースの町ですね」
確認はするものの竹成にその気はない。
「私も実在する女神に会ってみたいものだね」
「はあ」
竹成は溜息を吐いた。
というのも、巧妙に隠しているつもりではあったが、竹成は大の虫嫌いだった。もはや遺伝子に組み込まれているのではないかと思われるような生理的なおぞましさを感じるのだ。実体は無論のこと嫌いだったが、すでに「ムシ」という語感だけで脳の末端が痺れる程度にはアンタッチャブルだった。
竹成にとって、クロレラはぎりぎり植物サイドだがミドリムシはきっぱり動物サイド、クロレラは緑藻だがミドリムシは原生動物だ。もちろん、ミドリムシが虫ではないことはわかってはいたものの、その名に「ムシ」を宿している以上、それに拒否感を抱かないことは竹成には不可能だった。
どのように高貴な人物がいるのか知らないが、竹成にとってミドリムシを培養するに飽き足らず、それを人間に食べさせようとするような人物が女神であるはずはない。むしろ、ダークサイドの住人に違いないだろう。いうなれば、魔女である。グツグツと蟲の沸き立つ大釜から緑色のスナックを取り出している女性の高笑いが竹成の脳裏に響き渡った。
その想像のバカバカしさとおぞましさに竹成は頭を抱えた。