言っていなかったし、僕も予期していなかったのだけれど、最終回は前後編になっている。というわけで、前回はフィナーレ、今回がグランドフィナーレである。「なっげぇし、おわらねえ」と思ったわけではない。それでは、ウィトゲンシュタインの独我論のもう半分をみてみることにしよう。
前回は、「私」という語の使われ方に少し触れ、「私の言語」の内実をみて、「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」ということの含意するところをみた。その肝は、ザックリいって「私は世界の外側には立てない」ということだった。世界を外側から眺めることはできない。
なるほど、ということは、私は世界の内側にいることになりそうだ。と、思いそうなところなのだけれど、そうではないのである。私は世界の内側にもいない。世界が私の世界のかぎりそうなる。これがウィトゲンシュタインの提示する独我論に迫るためのもう半分である。
ウィトゲンシュタインによると、私は私の世界の外側にはいないし、内側にもいない。じゃあ、どこにいるのか。外側にも内側にもいないなら、どこにもいねぇじゃねぇか。素直に考えるとそうなる(そして、これはあるいみ正しい)。だが、もっと考えるとそれもおかしいということになる。
というのも、「私の世界」の外側にも内側にも「私」はいないからどこにもいないということになると、そもそもそれはもう「私の世界」ではなく、ただの「世界」でしかないだろう。私の言語によって描写される私の世界のどこかに、それを私のものたらしめているなにかはあるだろう。
そうしたなにかがなければいけないように思われる。とはいえ、これはちょっと先走りすぎている。まずは「私は私の世界の内側にもいない」ということをきちんとみることにしよう。そうすることによって、独我としての私のありかたもわかる(はずだ)。
ここでいわれている「存在しない」というのは「世界のうちに現れない」ということである。それはつまり、言語として表現することができないということであり、語りえないということである。この関係性には散々、触れてきたので(納得できるかはさておき)もう押さえられていると思う。
さて、じゃあ、どうして「主体としての私」は世界のうちに現れないのだろうか。ウィトゲンシュタインはこれに対して、実質的に一個の説明を与えている。「5.631」の後半と、「5.633」からの「眼と視野の比喩」がそれである。サクッと引用することにしよう。
僕は自分について語ることができる。たとえば、僕は五体満足であるとか、左足首に子供の頃の怪我のあとがあるとか、耳を動かすことができるとかそういうことは語れる。それは世界のなかに現れている、語りうることである。だからあるいみ、私は私について語ることができる。
しかし、それを語っている私は決してその世界のなかに現れない。いあいあ、いま現れたんじゃないか?と思われるかもしれない。「それを語っている私」といま言ったじゃないか。だがそうすると、「それを語っている私」を語っている私はいったい何者なんだということになるだろう。
そっちがまさに「語っている私」である。私は私について語る、そのとき、語られた私は世界のうちに現れる。だが、それを「語っている私」は現れない。もしそれを語ろうとしたとしても、それを語った瞬間に、それは「語られた私」になっている。
という次第で、どこまでいっても「語っている私」は語りによっては捉えきれない。しかし、『論考』 においては語ることによってしか世界のうちに現れるすべはない。ゆえに、「語っている私」はまさに語りえない。かくして、世界のなかに形而上学的主体は存在しえない。
視野のなかに眼はない。視野というのは眼に見られているところのものであり、それを見ている眼は視野のなかには現れない。眼で眼を見ることはできない。「主体と世界の関係」は、この「眼と視野の関係」と同じ事情にある。語る私を語ることによって捉えきることはできない。
というわけで、私の世界の外側にも内側にも(形而上学的主体としての)私は存在しない。独我論を徹底してきた結果、私の世界から「私」が消失してしまった。にもかかわらず、それが「私の世界」であるのはどうしてだろうか。ウィトゲンシュタインは書いている。
なぜなら、ここで「私の言語」といってしまうと、「だから、その私っていうのは誰なのかということを訊いているのです」と言われてしまうからである。ここはもう「この」としか言いようがない。つまり、これはウィトゲンシュタインその人のみが理解する言語ということである。
といっても、それは僕にも理解できてしまっている(気がしている)のだけれど、まあ、こうした言語の公共性をウィトゲンシュタインがどう考えていたのかは興味深いところ。少なくとも、それを「あてにしている」ことはたしかだ。僕は僕の理解する記号において思考を表現してきた。
ここで使われている「この」の背後にいなければならない「私」こそが、まさにウィトゲンシュタインその人が本当に語りたかったところの「私」である。それは語りえない、だが、こうして示されてはいる。それはどこにあるとも言えない。そして、ウィトゲンシュタインその人だけが残される。
世界の探究、つまり、どれだけのことを語りうるのかという探究は、言語を介して行われた。それは同時に、そのように「語ろうとする私」の探究でもあった。これは裏テーマだけれど、「語りうる世界」の探究が「語る私」の探究でもあるのは自然なことだろう。
ウィトゲンシュタインは「語りうる世界」について、その表現において線を引いた。そして、語りうる世界のみが世界じゃんといった。そのとき、その世界は私の言語によって描写される世界でしかありえないのだから、その外側に私は立ちえない。ゆえに、世界の外側に私はいない。
じゃあ、内側にいるのかというと、いないということが確認された。世界の内側にも私はない。かくして、世界のどこにも私はおらず、私は消失する。だが、世界を、私を、まさに探究していたはずの自我、私が本当に「私」と言いたいものは、どうして「ここ」にあるのか。
僕の理解だと、「5.6」というのはザックリ言って「表現のポテンシャルが存在のポテンシャルを決める」というようなことである。そうした理解における「限界」というのは、いわば「範囲」というか「限度」のことである。「ここまでは語れるけれど、そこからさきはカタツムリ!」というものだ。
だが、「5.632」「5.641」でいわれている「限界」というのは、そういうことをいっているようには思われない。じゃあ、どういうことだろうか。それはやはり、「5.641」の二段落目がヒントになるんじゃないかと思う。自我は「世界は私の世界である」ということに通して現れるのだ。
思うに、「5.6」というのは外側に向かって、その限界を定めるものだった。今度はその逆なのである。世界を私の世界として(独我論的に)探究(せざるをえないので、そうやって探究)していった結果、どうやらその世界から「私」が消失してしまうということになってしまった。
すると、それはもう「私の世界」ではなく、ただの「世界」である。だが、そもそも「世界は私の世界である」ということから出発したのだから、私は世界になにかしらの関与をしていないといけない。つまり、主体としての「私」は「世界が私の世界である」ために残された最後のものである。
それすら失われてしまうと、世界はもはや私の世界ではないものになってしまう。そうすると、それは眼を欠いた視野のように、もはやなにを意味しているのかわからないものになるだろう。ゆえに、主体としての「私」はミニマムとしての「世界の限界」である。それ以上、いけない。
というわけで、「私」の話題はおしまいである。ところで、ウィトゲンシュタインの独我論は「独特だ」といわれる。その独特さがどこにあるのかというと、やはり「5.64」の「独我論を徹底すると純粋な実在論と一致する」というあたりはその大きなところかなと思う。
どうしてそうなるのかというその仕掛けは上記したけれど、そもそも、どこかで一致するような双対性をもったものとして「独我論」と「実在論」を押さえているというところが、ウィトゲンシュタインの独特さなのではないかと思う。ザッと僕なりの説明を試みてみよう。
僕の理解するウィトゲンシュタインの実在論とはおおまかにいって「世界のなかに私はいる」というものである。世界があって、私がいる。当たり前だけれど、これを実在論と押さえよう。一方の独我論とは「世界のそとに私はいる」というものである。
これは納得いかない人も多いと思うけれど、独我論とは「(この)世界は私の世界だ」というものだから、「(この)夢は私の夢だ」というときに夢を見ている人が夢の外側にいなければならないように、世界を自分のものにする人も世界の外側にいなければならない。
ということは、「世界のなかに私はいる」という実在論と「世界のそとに私はいる」という独我論は、直接的な矛盾は惹き起こさないものの両立しえない主張ではある。さて、このとき、ウィトゲンシュタインが主張するのは「世界のなかにもそとにも私はいない」というものである。
これは「世界のなかに私はいない」と「世界のそとに私はいない」という命題の連言であるけれど、これはそれぞれ、いまみた「実在論」と「独我論」のそれぞれの否定となっている。この地点において、主体としての私はそのどちらをも否定して、縮退する。
そして、その主体に対応しうる唯一の自我、それを検討していた人物のみが残される。いまみた「独我論」と「実在論」は否定しさったのに、どういうわけか「完全に独我的な自我」と、それに対応する「完全に実在的な人物」だけが最後に残された。これは独特だろう。
と、いうわけで、いろいろ不足しているところがあるような気もするどころの騒ぎではないことは確定的に明らかなことが五臓六腑に染み渡るけれど、ウィトゲンシュタインの独我論をみてきた。最後に全体を簡単にまとめようと思っていたのだけれど、もう、いいだろう。
それにしても、最終的に「全十回」という、読む気の失せる長いものになってしまった。これまでお付き合いいただけた方には「どうもどうも」と言いたい。もっと計画的に書いていたらもう少しきれいにまとめられたかもしれないけれど、計画を立てていたら絶対に書かなかったと思う。
ここに書いてきたことで、新しいものはなにもない。きっとどこかで誰かがもっとわかりやすい仕方で書いているだろう。もし、新しいと感じるところがあったら、それは僕の誤読に起因している。その点は、御容赦いただきたいと同時に、楽しんでいただきたい。
僕はきちんとこの書物を読むことに努めながらも、その表現については自分の読んだことのないものを書こうとはしてきた。だから、これらのエントリは僕の思考のパッチワークではあるが、そのあたりの解説書からもってきた借り物の表現のパッチワークではない(つもりだ)。
上級者はにやにやとそのあたりを堪能していただきたい。まあ、そうはいっても、もし僕が読む立場だったら「借り物の表現でいいからしっかりわかりやすい説明はよ」と思うだろう。けれど、まあ、僕の勉強にはなったのでそれでいいかなとは思う。めでたし。(了)
前回は、「私」という語の使われ方に少し触れ、「私の言語」の内実をみて、「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」ということの含意するところをみた。その肝は、ザックリいって「私は世界の外側には立てない」ということだった。世界を外側から眺めることはできない。
なるほど、ということは、私は世界の内側にいることになりそうだ。と、思いそうなところなのだけれど、そうではないのである。私は世界の内側にもいない。世界が私の世界のかぎりそうなる。これがウィトゲンシュタインの提示する独我論に迫るためのもう半分である。
ウィトゲンシュタインによると、私は私の世界の外側にはいないし、内側にもいない。じゃあ、どこにいるのか。外側にも内側にもいないなら、どこにもいねぇじゃねぇか。素直に考えるとそうなる(そして、これはあるいみ正しい)。だが、もっと考えるとそれもおかしいということになる。
というのも、「私の世界」の外側にも内側にも「私」はいないからどこにもいないということになると、そもそもそれはもう「私の世界」ではなく、ただの「世界」でしかないだろう。私の言語によって描写される私の世界のどこかに、それを私のものたらしめているなにかはあるだろう。
そうしたなにかがなければいけないように思われる。とはいえ、これはちょっと先走りすぎている。まずは「私は私の世界の内側にもいない」ということをきちんとみることにしよう。そうすることによって、独我としての私のありかたもわかる(はずだ)。
思考し表象する主体は存在しない。(「5.631」)さて、順番だと「5.62」「5.621」「5.63」をみたいところだが、実のところ、この段階ではまだそれらはわからない。というのも、そこに書かれていることの説明が始まるのは「5.631」からだからだ。だから、さきにその説明をみることにしよう。
ここでいわれている「存在しない」というのは「世界のうちに現れない」ということである。それはつまり、言語として表現することができないということであり、語りえないということである。この関係性には散々、触れてきたので(納得できるかはさておき)もう押さえられていると思う。
さて、じゃあ、どうして「主体としての私」は世界のうちに現れないのだろうか。ウィトゲンシュタインはこれに対して、実質的に一個の説明を与えている。「5.631」の後半と、「5.633」からの「眼と視野の比喩」がそれである。サクッと引用することにしよう。
「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても報告が為され、また、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか等が語られねばならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である。つまり、この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。(「5.631」)
世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。これは一見難しい感じがするけれど、実のところ、とても単純なことを言っている。「私の見出した世界」には「私」についてのことがらも網羅されている。だがそのとき、その本のなかには「語られた私」が現れるのみであり、そのなかに「語っている私」は決して現れない。
(「5.633」)
僕は自分について語ることができる。たとえば、僕は五体満足であるとか、左足首に子供の頃の怪我のあとがあるとか、耳を動かすことができるとかそういうことは語れる。それは世界のなかに現れている、語りうることである。だからあるいみ、私は私について語ることができる。
しかし、それを語っている私は決してその世界のなかに現れない。いあいあ、いま現れたんじゃないか?と思われるかもしれない。「それを語っている私」といま言ったじゃないか。だがそうすると、「それを語っている私」を語っている私はいったい何者なんだということになるだろう。
そっちがまさに「語っている私」である。私は私について語る、そのとき、語られた私は世界のうちに現れる。だが、それを「語っている私」は現れない。もしそれを語ろうとしたとしても、それを語った瞬間に、それは「語られた私」になっている。
という次第で、どこまでいっても「語っている私」は語りによっては捉えきれない。しかし、『論考』 においては語ることによってしか世界のうちに現れるすべはない。ゆえに、「語っている私」はまさに語りえない。かくして、世界のなかに形而上学的主体は存在しえない。
つまり、視野はけっしてこのような形をしてはいないのである。(「5.6331」)
君は現実に眼を見ることはない。/そして、視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されない。(「5.633」)このようにして言われていることはひとつの比喩(アナロジーによる論証)になっている。「5.633」の冒頭の一節のパロディを作るとわかりやすいだろう。つまり、「視野の中のどこに眼が認められうるのか」ということである。「視野」が「世界」、「眼」が「主体」に相当する。
視野のなかに眼はない。視野というのは眼に見られているところのものであり、それを見ている眼は視野のなかには現れない。眼で眼を見ることはできない。「主体と世界の関係」は、この「眼と視野の関係」と同じ事情にある。語る私を語ることによって捉えきることはできない。
というわけで、私の世界の外側にも内側にも(形而上学的主体としての)私は存在しない。独我論を徹底してきた結果、私の世界から「私」が消失してしまった。にもかかわらず、それが「私の世界」であるのはどうしてだろうか。ウィトゲンシュタインは書いている。
世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。(「5.62」)さて、問題は「この」である。良識ある人は即座に「どの?」とつっこまねばならない。それはボケとツッコミにゆかりのある文化に生まれた者たちの宿命といえる。これは厳しいところで、ウィトゲンシュタインもここで「私の言語」という言葉を使うことはできなかった。
なぜなら、ここで「私の言語」といってしまうと、「だから、その私っていうのは誰なのかということを訊いているのです」と言われてしまうからである。ここはもう「この」としか言いようがない。つまり、これはウィトゲンシュタインその人のみが理解する言語ということである。
といっても、それは僕にも理解できてしまっている(気がしている)のだけれど、まあ、こうした言語の公共性をウィトゲンシュタインがどう考えていたのかは興味深いところ。少なくとも、それを「あてにしている」ことはたしかだ。僕は僕の理解する記号において思考を表現してきた。
ここで使われている「この」の背後にいなければならない「私」こそが、まさにウィトゲンシュタインその人が本当に語りたかったところの「私」である。それは語りえない、だが、こうして示されてはいる。それはどこにあるとも言えない。そして、ウィトゲンシュタインその人だけが残される。
ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見てとられる。独我論の自我は広がりを欠いた点にまで縮退し、自我に対応する実在が残される。(「5.64」)さて、こうして、前回の中盤あたりの出発点に戻ってきた。「この言語」というのは、それによってなにかを表現しようとする人物の用いる記号のことである。ある人物がなにかについて語ろうとする、これが出発点だ。世界についての探究も私についての探究も、そこから始まる。
世界の探究、つまり、どれだけのことを語りうるのかという探究は、言語を介して行われた。それは同時に、そのように「語ろうとする私」の探究でもあった。これは裏テーマだけれど、「語りうる世界」の探究が「語る私」の探究でもあるのは自然なことだろう。
ウィトゲンシュタインは「語りうる世界」について、その表現において線を引いた。そして、語りうる世界のみが世界じゃんといった。そのとき、その世界は私の言語によって描写される世界でしかありえないのだから、その外側に私は立ちえない。ゆえに、世界の外側に私はいない。
じゃあ、内側にいるのかというと、いないということが確認された。世界の内側にも私はない。かくして、世界のどこにも私はおらず、私は消失する。だが、世界を、私を、まさに探究していたはずの自我、私が本当に「私」と言いたいものは、どうして「ここ」にあるのか。
自我は、「世界は私の世界である」ということを通して、哲学に入り込む。(「5.641」)
哲学的自我は人間ではなく、人間の身体でも、心理学が扱うような人間の心でもない。それは形而上学的主体、すなわち世界の――部分ではなく――限界なのである。(「5.641」)
主体は世界に属さない。それは世界の限界である。(「5.632」)さて、こういったところでいわれている「限界」というのは少しややこしい。というのも、それは「5.6」で「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」というように使われていた「限界」とはちょっと趣が違うように思われるからである。むしろ、「全体」とか「前提」とかがシックリする。
僕の理解だと、「5.6」というのはザックリ言って「表現のポテンシャルが存在のポテンシャルを決める」というようなことである。そうした理解における「限界」というのは、いわば「範囲」というか「限度」のことである。「ここまでは語れるけれど、そこからさきはカタツムリ!」というものだ。
だが、「5.632」「5.641」でいわれている「限界」というのは、そういうことをいっているようには思われない。じゃあ、どういうことだろうか。それはやはり、「5.641」の二段落目がヒントになるんじゃないかと思う。自我は「世界は私の世界である」ということに通して現れるのだ。
思うに、「5.6」というのは外側に向かって、その限界を定めるものだった。今度はその逆なのである。世界を私の世界として(独我論的に)探究(せざるをえないので、そうやって探究)していった結果、どうやらその世界から「私」が消失してしまうということになってしまった。
すると、それはもう「私の世界」ではなく、ただの「世界」である。だが、そもそも「世界は私の世界である」ということから出発したのだから、私は世界になにかしらの関与をしていないといけない。つまり、主体としての「私」は「世界が私の世界である」ために残された最後のものである。
それすら失われてしまうと、世界はもはや私の世界ではないものになってしまう。そうすると、それは眼を欠いた視野のように、もはやなにを意味しているのかわからないものになるだろう。ゆえに、主体としての「私」はミニマムとしての「世界の限界」である。それ以上、いけない。
というわけで、「私」の話題はおしまいである。ところで、ウィトゲンシュタインの独我論は「独特だ」といわれる。その独特さがどこにあるのかというと、やはり「5.64」の「独我論を徹底すると純粋な実在論と一致する」というあたりはその大きなところかなと思う。
どうしてそうなるのかというその仕掛けは上記したけれど、そもそも、どこかで一致するような双対性をもったものとして「独我論」と「実在論」を押さえているというところが、ウィトゲンシュタインの独特さなのではないかと思う。ザッと僕なりの説明を試みてみよう。
僕の理解するウィトゲンシュタインの実在論とはおおまかにいって「世界のなかに私はいる」というものである。世界があって、私がいる。当たり前だけれど、これを実在論と押さえよう。一方の独我論とは「世界のそとに私はいる」というものである。
これは納得いかない人も多いと思うけれど、独我論とは「(この)世界は私の世界だ」というものだから、「(この)夢は私の夢だ」というときに夢を見ている人が夢の外側にいなければならないように、世界を自分のものにする人も世界の外側にいなければならない。
ということは、「世界のなかに私はいる」という実在論と「世界のそとに私はいる」という独我論は、直接的な矛盾は惹き起こさないものの両立しえない主張ではある。さて、このとき、ウィトゲンシュタインが主張するのは「世界のなかにもそとにも私はいない」というものである。
これは「世界のなかに私はいない」と「世界のそとに私はいない」という命題の連言であるけれど、これはそれぞれ、いまみた「実在論」と「独我論」のそれぞれの否定となっている。この地点において、主体としての私はそのどちらをも否定して、縮退する。
そして、その主体に対応しうる唯一の自我、それを検討していた人物のみが残される。いまみた「独我論」と「実在論」は否定しさったのに、どういうわけか「完全に独我的な自我」と、それに対応する「完全に実在的な人物」だけが最後に残された。これは独特だろう。
と、いうわけで、いろいろ不足しているところがあるような気もするどころの騒ぎではないことは確定的に明らかなことが五臓六腑に染み渡るけれど、ウィトゲンシュタインの独我論をみてきた。最後に全体を簡単にまとめようと思っていたのだけれど、もう、いいだろう。
それにしても、最終的に「全十回」という、読む気の失せる長いものになってしまった。これまでお付き合いいただけた方には「どうもどうも」と言いたい。もっと計画的に書いていたらもう少しきれいにまとめられたかもしれないけれど、計画を立てていたら絶対に書かなかったと思う。
ここに書いてきたことで、新しいものはなにもない。きっとどこかで誰かがもっとわかりやすい仕方で書いているだろう。もし、新しいと感じるところがあったら、それは僕の誤読に起因している。その点は、御容赦いただきたいと同時に、楽しんでいただきたい。
僕はきちんとこの書物を読むことに努めながらも、その表現については自分の読んだことのないものを書こうとはしてきた。だから、これらのエントリは僕の思考のパッチワークではあるが、そのあたりの解説書からもってきた借り物の表現のパッチワークではない(つもりだ)。
上級者はにやにやとそのあたりを堪能していただきたい。まあ、そうはいっても、もし僕が読む立場だったら「借り物の表現でいいからしっかりわかりやすい説明はよ」と思うだろう。けれど、まあ、僕の勉強にはなったのでそれでいいかなとは思う。めでたし。(了)
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by kourick
| 2012-07-15 20:00
| 考察